1 最高裁判所第三小法廷は、2024年(令和6年)1月29日付けで、いわゆる名張毒ぶどう酒事件の第10次再審請求の特別抗告審につき、再審請求を棄却した名古屋高等裁判所刑事第1部の原々決定、異議申立てを棄却した同裁判所刑事第2部の原決定を是認し、故奥西勝氏の妹岡美代子氏の特別抗告を棄却する旨決定した(以下「本決定」という。)。ただし、本決定には、原決定及び原々決定を取り消して再審を開始すべきだという宇賀克也裁判官の反対意見が付されている(以下「宇賀反対意見」という。)。

2(1) 本件は、1961年(昭和36年)3月、三重県名張市で、宴会時に毒物が混入したぶどう酒(以下「本件ぶどう酒」という。)を飲んだ女性5名が死亡し、12名が傷害を負った事件である。奥西氏は、第一審で無罪となったが、控訴審で逆転死刑判決を受け、上告棄却により死刑判決が確定した。

 (2) 1977年(昭和52年)、日本弁護士連合会が奥西氏の再審支援を決定し、当会会員を多数含む弁護団が、長年にわたって熱心に弁護活動を続け、当会もこれを支援してきた。2005年(平成17年)4月には、第7次再審請求において名古屋高等裁判所で再審開始が決定されたが、その後不当にも取り消された。

 (3) 奥西氏は第9次再審請求の途中で病に倒れ、2015年(平成27年)10月4日、獄中で帰らぬ人となったが(享年89歳)、その後、奥西氏の遺志を引き継いだ岡氏が新たな再審請求人として、2015年(平成27年)11月6日、第10次再審請求の申立てを行っていた。

3(1) 第10次再審請求審では、本件ぶどう酒の瓶口にまかれていた封緘紙の裏面に、製造過程で使用されていたカルボキシメチルセルロース(CМC)糊だけでなく、家庭用洗濯糊の成分であるポリビニルアルコール(PVA)糊が付着しているか否かという点が重要な争点とされた。  

 (2) 本件は有力な物証が乏しい事件であるなか、本件確定判決(名古屋高判昭和44年9月10日)では、専ら、本件ぶどう酒瓶に装着されていたと思われる本件封緘紙、耳付き冠頭、本件替栓が、公民館の囲炉裏の間付近で発見されたことから同所で封緘紙を破って開栓がなされ、その際に毒物が混入されたとされ、そしてこの点に加え、本件ぶどう酒の置かれた公民館には、奥西氏がただ一人で約10分間おり、同所で犯行が可能であったのは奥西氏しかいないという点を、奥西氏の犯人性を認める重要な事情とされた。

 (3) これに対し弁護団は、封緘紙の裏面には製造時瓶詰の際に使われたCMC糊とは別に、家庭で洗濯糊として使われていた別成分を持つ糊であるPVA糊が検出されたとの新証拠(以下、「糊鑑定」という)を提出し、糊鑑定により、真犯人が封緘紙を二度貼りした可能性が生じる以上、犯行場所が公民館であって、奥西氏しか犯行機会がないという確定判決の事実認定には合理的な疑いが生じたと主張していた。  

 (4) しかし、請求審(名古屋高等裁判所刑事第1部)は何らの事実取調べを行うことなく再審請求を棄却し、異議審(名古屋高等裁判所刑事第2部)も糊鑑定について科学的知見に基づく判断を行うことなく、異議申立てを棄却し、再審開始を認めなかった。このため、特別抗告審(最高裁判所第三小法廷)で弁護団は、新証拠である糊鑑定について専門家の意見書、鑑定書等を多数提出し、糊鑑定の信用性をさらに補強し、原決定及び原々決定の誤りを科学的に明らかにしてきた。

4(1) それにもかかわらず、本決定は、原決定及び原々決定を追認し、糊鑑定が、科学的根拠を有する合理的なものとはいえない等として特別抗告を棄却した。

 (2) 糊鑑定では、フーリエ変換赤外分光光度計を使用し、全反射を利用して検体表面の赤外吸収スペクトルを測定する方法(ATR法)が用いられている。

   本決定は、本件封緘紙や、その封緘紙の貼り付けに使用されていた糊の各成分自体が正確には確定し難いこと、本件封緘紙の採取過程、保管過程で何らかの物質が付着した可能性が払拭できないこと等を指摘し、測定対象物質が特定されていないなかでのATR法には限界があるため、本件封緘紙に付着した物質を特定して、本件封緘紙が本件ぶどう酒への毒物混入後に再度封緘された可能性を示すことは相当困難である等として、糊鑑定の証拠価値を否定した。

   また、本決定は、糊鑑定が、当初PVAの識別基準としていたピークのうち、その後に積極的な識別基準と扱わなくなったものがあることも、判断の合理性を否定する理由としている。

5(1) しかし、宇賀反対意見は、①本件封緘紙の測定の結果、1733cm-1(以下、単位を省略)付近~1714付近のピークが現れているところ、これはカルボニル基の存在を示しており、カルボニル基はPVAの原料であるポリ酢酸ビニルに由来し、したがってPVAには存在しているが、紙やCMCには存在していないから、このピークは本件封緘紙にPVAが付着している可能性が高いことを示し、②事件当時販売されていた洗濯糊であるゴーセノールを紙に塗布して測定した結果、1733付近~1714付近にピークが認められたことは、本件封緘紙にPVAが付着している可能性を補強している、とした糊鑑定を、合理的なものとしてその証拠価値を肯定した。  

 (2) 以上の宇賀反対意見は、ATR法が物質の判別に関する標準的な測定方法であり、糊鑑定での赤外吸収スペクトルの測定自身、公平性、透明性が確保された状況下のものであったことに加え、本件封緘紙と比較対照をする資料として使用された紙が本件封緘紙と同質のものであったことや、本件封緘紙には間違いなくCMC糊が付着していたと言えること等、実験結果の正確性を担保する前提に留意したものであり、適切な判断と言わなければならない。

   加えて、宇賀反対意見が、本件封緘紙自体や、その印刷に使用されたインクにPVAが含まれていた可能性はなく、また宴会で供された飲食物や、人の手の皮脂等が付着しそこにPVAが含まれていた可能性も現実的な可能性として考えられないと指摘している点も、本件封緘紙の採取過程や保管過程で、何らかの物質が付着した可能性を指摘して糊鑑定の証拠価値を消極視する多数意見への批判として正当である。  

 (3) なお糊鑑定に関しては、紙にCMC糊とPVA糊を塗布した試料と、本件封緘紙から測定された1733付近~1714付近のピークには形状の違いがあり、このことから、PVA以外の物質が本件封緘紙におけるピークを形成する可能性があると判断する余地もあった。しかし、宇賀反対意見は、「疑わしきときは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則に立って、その可能性はあくまでも抽象的な可能性に過ぎない以上、糊鑑定の証拠価値を否定する事情にはならないとした。この点も、誤った確定判決からの無辜の救済という、再審制度の理念に忠実な証拠評価の在り方として極めて妥当である。

    以上のほか、宇賀反対意見は、糊鑑定において、当初PVAの識別基準とされていた他のピークが、その後、積極的な識別基準と扱わなくなったことに対する多数意見の批判に対しても、糊鑑定の信用性を揺るがすものではない点を説得的に示している。

 (4) こうして、本件封緘紙には封緘時に用いられたCMC糊の他に、PVA糊が別途塗布されていた可能性があるとする糊鑑定には、高い信用性が認められる。

    糊鑑定は、犯人が本件封緘紙を破って本件ぶどう酒を開栓し農薬を混入した後に、PVA糊を用いて本件封緘紙を再度貼り直して閉栓した可能性を浮上させるものであって、その結果、最早、奥西氏のみに犯行の機会があったという判断は成り立たなくなり、同氏の犯人性には合理的な疑いが生じたと言える。

  (5) 糊鑑定の信用性に加え、宇賀反対意見は、本件ぶどう酒が、公民館に届けられる前に、酒店から別人宅にいったん届けられた時刻が、午後5時頃であったとする確定判決の判断にも誤りがあり、同時刻は午後4時頃であった可能性があること(従って、同所で農薬が混入された可能性があること)や、奥西氏の自白の信用性につき、多大な疑問が生じる理由等も説得的に示している。これらも踏まえれば、確定判決の有罪認定には明らかに合理的な疑いが生じていると言えるのであって、再審請求を棄却すべきとした原々決定及び原決定は速やかに取り消されなければならない。

6(1) 奥西氏の遺志を引き継いだ岡氏も現在94歳という高齢であり、速やかに再審を開始し、雪冤を果たすことができないまま他界した奥西氏の名誉回復がなされなければならない。弁護団は、直ちに第11次再審請求を準備する予定であり、当会は、引き続き名張毒ぶどう酒事件の再審を支援し、あらためて、再審開始決定及び無罪判決の獲得に向け、最大限の努力を継続することを表明する。

 (2) 加えて、当会は、昨年3月、臨時総会において、証拠開示の制度化や再審開始決  定に対する検察官の不服申立て禁止を含む再審法改正の実現を求める決議を行った。再審請求手続における審理の在り方については、現行法上明文の規定が存在せず、以上のほかにも、審理手続が裁判所の広範な裁量に委ねられている点も、適正手続の観点から改められるべきである。

    当会は、本決定を踏まえ、再審法改正の実現を含め、えん罪を防止・救済するための制度改革の実現にも、全力を尽くす決意である。

2024(令和6)年2月20日 

愛知県弁護士会       

会 長  小 川    淳