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父親

子どもの事件の現場から(231)
父親

会報「SOPHIA」 令和4年10月号より

子どもの権利委員会 委員

高橋直紹

 彼女が子どもセンターパオに辿り着いたのは、彼女が18歳のときでした。他県の弁護士から、自分の県内でこの子を十分守ってやれない可能性があるので、パオで支援してやって欲しいと連絡があり、私と新谷愛子弁護士(現在は金沢弁護士会に登録替え)がパートナー弁護士になりました(パオでは、利用する子どもにそれぞれ担当の「パートナー弁護士」が就き、パオを旅立った後もその子が「もう弁護士は不要」と言わない限り、細々とでも関わり続けています)。

 彼女は父親と二人暮らしだったのですが、父親の友人と称する人物が家庭に入り込むようになり、その人物から壮絶な虐待を受け続けました。父親は、その人物から彼女を守ることができず、虐待を放置し続けました。

 パオの運営する子どもシェルター「丘のいえ」やステップハウス「ぴあ・かもみーる」では、彼女は他の子どもたちを笑わせてくれるひょうきんな子でした。もちろん壮絶な虐待を継続的に受け続けてきたので、癒されぬ深い心の傷を背負いながらの生活だったと思いますが、それを見せずにいてくれました。

 パオで約1年過ごし、彼女は一人暮らしを始めました。私たちパートナー弁護士は、彼女がパオを旅立った後も、様子伺いの食事だけでなく、定期的に通う精神科クリニックや新型コロナ罹患疑い時の救急病院の同行、無理して働いた結果仕事に行けなくなった際の上司との面談の立会、生活保護申請の同行など、折に触れて彼女と関わってきました。

 ある日、彼女をパオに繋いだ弁護士から、父親の危篤の連絡が入りました。これまでも、父親の情報が入る度に彼女に伝えては来ましたが、彼女は特に反応しませんでした。しかし、父親の危篤を聞いたとき、私に、「会いに行きたい...」と打ち明けました。私は彼女の気持ちを量りかねました。あんな酷い虐待から守ってくれなかった父親なのに...。でも、彼女にとっては唯一の身内であり、父親の知人から虐待を受けるまでの間、彼女は父親と二人で一所懸命生き抜いてきたのだと思います。

 翌朝一番に、彼女を乗せて父親の入院先の病院に向かいました。行きの車の中で彼女は殆ど話をしませんでした。激しい雨がフロントガラスを叩きつける音とエンジンの音だけが響く長距離ドライブでした。病院に到着し、彼女は父親と久々に面会しました。はじめは心配だったので、私も立ち会いました。しかし、他人である私がいたためか、彼女は何も話すことができず、父親の問いかけに無言で反応するだけでした。病室を出て医師から病状説明を受けている間ただただ嗚咽する彼女を見て、私は、「自分は立ち会わないから二人で話しておいで」と伝えました。20分ほどの短い時間でしたが、彼女と父親は親子水入らずの時間を過ごしました。病院を出ると雨は上がっており、帰りの車の中で彼女は眠り続けていました。

 父親はその後2か月ほどで亡くなりました。色々事務的なことでバタバタしましたが、最後は一緒に役所まで行き、無事彼女は遺骨を受け取ることもできました。

 父親の訃報を聞いて彼女は相当動揺したと思うのですが、私には気丈に振る舞っていました。こういうとき弁護士って本当に無力だなと思っていましたが、しばらくして彼女からLINEが来ました。「難しい話とか段取りとかしてくれてありがとう」「私にとってお父さんは高橋さんなので」「感謝してるよ、いつも」。

 担当の子どもたちに、私はあなたの親にはなれない、親ではないけどできる範囲で応援はしたいと伝えてきた私ですが、彼女の言葉に私が救われました。