愛知県弁護士会トップページ> 愛知県弁護士会とは > ライブラリー > シンポジウム「空襲被害の補償を求めて」

シンポジウム「空襲被害の補償を求めて」

会報「SOPHIA」 平成28年6月号より

人権擁護委員会 委員 花井 増實

 1975年名古屋開催の日弁連人権大会の第3決議で、民間戦災死者、傷害者に対する援護法をすみやかに制定すべきと決議されました。その人権大会では、郷成文会員が提案説明者となり、大脇雅子会員や伊藤静男会員が賛成演説したと記録されています。その後、戦時災害援護法案が計14回国会に提案されましたが、いずれも廃案となっています。ところが昨年から、「空襲被害者等の補償問題について立法措置による解決を考える議員連盟」(超党派空襲議連)が再開し、実務者チームによる法案作りが精力的に行われています。この現在の立法活動再開と1975年日弁連人権大会名古屋決議を踏まえ、6月18日、本シンポジウムを開催しました。シンポジウムは日弁連の共催を得て開催し、遠くは盛岡から、また東京、大阪からも多くの空襲被害者の皆様が参加されました。超党派空襲議連の副会長の一人である近藤昭一衆議院議員と実務者チームの清水忠史衆議院議員が出席され、全体では約70名のご参加をいただきました。

 空襲被害の実情報告は、杉山千佐子氏と安野輝子氏からなされました。

 杉山氏は今年9月に101歳を迎えられ、1年前までは自立歩行、現在は車いす生活をされているとのこと。少し元気がない様子でしたが、付添の岩崎氏の質問に答える形で話されました。29歳時に名古屋空襲で顔の左半分に重傷(左目は摘出)を負われたこと、戦後、軍人軍属だけ補償を受けて空襲被害者に国からの補償がないことは不条理であるとして、怒りの声を持って国会議員に訴えて回ったが端から相手にされなかったことなど、辛く悔しかった思い出をしっかりとした言葉で語られました。当時の国会議員の冷たい対応が目に浮かびます。悲しいです、つらいです、本当の戦争が終わるのはいつでしょうという短い言葉で心情を表現されましたが、強く愁いを帯びた言葉から71年間のご苦労がひしひしと伝わってきました。

 安野氏は鹿児島県川内市の親戚方で家族と暮らしておられ、幼稚園年中のとき防空警報で逃げる時に爆弾の破片で左足ひざ下を失ったこと、病院で生死をさまよい一命は取り留めたこと、近所の二十歳の女性が地鳴りのような呻き声を上げて病院で息を引き取ったのを見て「このことを伝えるために生きる」と決意されたことなど、戦争の恐ろしさを語られました。子ども心に足はまた生えてくると思っていたこと、戦後B29は来ないが足はもどってこないと言われた、辛い複雑な経験が語られました。片足がないことで学校でのいじめを受け中学は1週間しか登校できなかったこと、大阪に出た母を追って黙って大阪に行き、生活のために松葉杖と義足で懸命に洋裁に励んだと語られました。そして1975年杉山氏の団体設立を知り名古屋に来られたこと、国に人生を奪われたという思いで大阪空襲訴訟を提起したことなど、長く苦しい時を整理してお話しいただきました。戦後が終わらない現実から目をそむけることはできません。

 大前治弁護士からは名古屋、東京、大阪の空襲訴訟の解説があり、戦時中は防空法やその通牒によって空襲からの避難が禁止され消火活動が義務付けられていたことが甚大な空襲被害をもたらしたと、恐ろしい戦争法制の実態が語られました。黒岩哲彦弁護士からは、空襲議連との立法準備活動の報告がありましたが、会長鳩山邦夫衆議院議員がシンポ直後に亡くなられたことは痛恨の極みです。合掌