弁護士会報 昭和42年9月号より


ガダルカナル(5)

会 員  山 本 正 男

17.後衛尖兵
(一)
 1月17日夕方、大隊本部に集結した中隊兵力は総数15名であった。この中には傷ついた者もおり、病に冒されている者もいる。114名上陸した中隊兵力は約1割に減っていた。どの部隊も同じだ。
 大隊長は我が中隊に後衛尖兵を命じた。今まで最後の線を守っていた三機の中隊と交替させられたのだ。また1粁(キロメートル)敵方に前進した。草原のある所だ。3日頑張れと150瓦(グラム)(3日分として)の現品を配給された。冗談じゃない。通常の時の1食分にも当たらない。3日も頑張れるわけがない。配属中隊の情けなさで、この戦況で更に前線へ戻って頑張れというのだ。死ねというのと同じだ。我々が抵抗している間に退却の時が稼げるという寸法だ。案の定、われわれが前進するのと時を同じくして部隊は撤退していたのだ。この時、大隊長は撤退の命令が届いていたのであろうが我々には一口も云わず、翌18日夕になって初めて撤退の命令を伝達して来たのだ。その時の大隊の位置は優に1日行程の後方にいたのだ。
 ともあれ17日の真夜中三機と交替して後衛尖兵の任務についたのである。
 翌朝、こともなく夜が明け、戦場はいやに静かであった。友軍はあたりにいないので却って気が楽になり、日光浴と体操を楽しむことにした。久振りに裸体となり、体一杯太陽を浴びた。ジャングルの谷間のジメジメした所とは違い気分爽快だ。これで弾がこなければ申し分なし。昼少し前、敵の4、5名の来襲があった。ただでさえ逃腰になっている兵隊は逸早く山から逃げ下りた。「馬鹿、早く上って来い、それで任務が勤まるか。」と叱声されて、又トボトボと上ってくる悄然たる姿は見る影もなく哀れである。この時唯一の火器である擲弾筒を敵に奪われてしまった。兵器はあと小銃のみである。このショックで彼等は飯が喉を通らず結局150瓦の食糧を口にしなかった。
 午後2時頃、敵はドンドン我が位置より後方に侵入し始め、退路を完全に遮断されてしまった。昼間煙を出したのを敵に発見されたものか、1時間近くに亘って榴散弾のお見舞を受けた。もう5米(メートル)も近く弾道を画いていたら我々は蜂の巣になっていたであろう。赤、青、桃の奇麗な曳光弾が矢の如く流れていく。生きた心地がしなかったが、死が迫っているという緊迫感は感じられなかった。もうどうでもなれという感じが強く、案外冷静になっていたものだ。150瓦の米でも1食で喰べれば相当腹持ちがよい。もう食糧はない。弾丸も残り少ない。鉄帽も重いので捨てることにした。防毒面も役に立たない。飯盒と水筒を雑嚢(ざつのう)に入れ、いつでも移動し得る身軽さだ。夜に入るのを待って逃出すに限る。日のある中に脱出路を見つけ出しておこうと、U上等兵に脱出路を捜させておいた。
 夕方4時頃U上等兵が帰って来た。脱出路はあるが草原上を敵が動哨しているので、夜こっそり逃げ出すより仕方がないというのだ。暗くなるまでジリジリと時の経つのを待っていた。余りいい気持ではない。夜も暗くなった頃撤退の伝令が到着した。早速撤退に移った。あたりは暗いが音は聞こえる。音を出すことは厳禁だ。草原上に達した。午後8時頃であろうか。折り柄月が上って来た。運の悪いときに月が上って来たものだ。草原は一面に月の光で明るくなる。そこを敵の動哨が行ったり来たりする。時々銃剣がキラリと夜空に光る。マイクが仕掛けてあるので音だけは出せない。草原には2尺(約60cm)以上の草が生えているので、匍匐(ほふく)前進すれば姿を見られないで済む。月光は淡く霞んでいるので、鳥目の敵には見つからないであろう。草の穂先が揺れても風位にしか感じないであろう。先づ私が匍匐をし始めた。第四匍匐という奴だ。尺取虫ともいう。台上を越して向い側のジャングルまでは最も狭い所で50米はある。これを横断するには15分はかかる。結局このように尺取虫をして全員が台上を通過したのは午後12時近くになったと思う。元の大隊本部の位置まで辿りつくと、本部附近には一兵もいない。折り柄豪雨が沛然(はいぜん)と降り出し、全身ずぶ濡れとなり、一時難を避けて洞窟に入った。今まで大隊長のいた所だ。安全な処だ。しかし段々と増水してくるために川底の水嵩は増していく。川底の歩行は不可能となり、雨の止むのを待った。
 雨が小降りとなり、川の水が引き始めたので行動を開始することになった。歩くのは川底で歩き難く、ジャングルの真夜中であるため、歩足は遅々として進まず、早く夜明けまでに敵の射程距離を脱け出さないとやられる恐れがある。1日4粁の速度であるから、凡そその進み方が如何に遅いか判るというものだ。
 川中の岩に躊んでいる者がいる。ギョッとした。もう誰もおるまいと思っていたからだ。中隊主力は30分以上も前に通過した筈だし、私はその最後を歩いていたからだ。「誰だ」と声をかけると「十二中隊のKだ」という。よくみるとK一等兵だ。さては全滅の中隊拠点より脱出に成功してここまで来たのだと判った。
 しかしもう精根尽きたのか、ここで坐ったまま動けなくなったらしい。青い胃液らしいものを吐いていた。最後の前触れだ。「これを内地に帰ったら妹に渡してくれ」とポケットからお守りみたいなものを取出した。「俺も生きて帰れるかどうかわからぬ。しかし若し運よく生還できたら必らず届けてやるから安心せよ」といってやったら、安心したのか「水をくれ」という。「水をやってもよいが泥水だ」というと、「それでもよい」といって一口飲んだと思う。末期の泥水だ。それでは行くぞと別れたのが最後だ。もう気力だけで支えていたのだから時を出でずして絶命したことであろう。彼から預ったものが何であったかは忘れたが、写真みたいのものであったと記憶している。しかしそれも撤退のとき、海中に捨ててしまった。外の一切のものと共に。

(二)
 まる2昼夜を経て漸やく砲兵台で大隊本部と合流した。やけによく降る雨だ。昨夜から降り続きだ。炊事も出来ぬ。枯木が湿っているので、思うように火も起こせぬ。やむなく生米のまま噛る。これが下痢原因となった。1日何十回となく用便しなければならない。2日位徹底的に苦しんだ。今迄用便をした記憶が余りない。少量の食物は凡て血、肉となっていたらしい。排泄する余物はないのだ。しかし一旦下痢を起すと、体内は衰弱をしているので忽ち大腸炎となるのだ。
 大腸炎で倒れた者も少くない。生米は絶対にいけない。もう懲り懲りだ。
 用便で憶い出したが、頭髪も髭もどう仕末したものか記憶がない。爪も切らなかったように思う。極度に栄養失調になると髪も髭も延びないのではないかと思う。そんな不必要なことをやっている程人の身体には余力がなかったのだ。
 栄養失調というと痩せ細るのが通常だが、逆に膨れるのもある。M一等兵なんかは睾丸が子供の頭大に膨れ上り、歩行にも困難となっていた。これも死んだが何とも気の毒な死に方であった。
 それから性慾も全然起こらなかった。性慾は一種の贅沢な慾なのであろうか。人間極限に来ると凡ゆる物慾はなくなり唯食慾のみの餓鬼道になるものであることがよく判る。
 悲惨なる戦場の体験の中で、動かし得ないことは人間は容易に最も浅ましい動物になれるということだ。この現実の前に学問も修養も凡そ無力に等しい。今でこそ人はもっとらもしい理屈をつけてそれをカバーするかも知れず、又体験のない人はあり得ない世界だと考えるかも知れない。しかし現実はそんな生易しいものではなかったのだ。人間と動物とは紙一重の差なのだ。唯如何に人間らしく抑制し得るかどうかということにある。あの異常な戦場で誰がよく人間性を保ち得たというのであろうか。
 砲兵台に2日間いた。その間敵は艦砲射撃の猛射をひっきりなしに浴びせてきた。
 この時であったと思う。撤退を掩護する目的で上陸した部隊がある。これを矢野大隊という。初年兵ばかりで編成していたのだ。中隊長が少尉で、小隊長が下士官、分隊長が初年兵の優秀な奴という全くもってお話にならない部隊が上陸したのだ。前戦を敵弾と共に逃げ廻るのでこちらの士気に影響すること夥しい。ゆっくり歩けと云っても仲々そうはいかぬらしい。あたら若い命を戦場で失ったものだ。上陸後数日にして半数以下に減ったらしい。何のために撤退間際にガ島に来たのか分らない。全く死にに来たようなものだ。砲兵台ではかなりの数の兵であったが、引揚げる乗船地点では余り見掛けなかったのは恐らく大半、勇川附近でやられてしまったらしい。1月21日の夕方砲兵台を退ることになった。漸やく下痢もおさまった。中隊の一番後から退った。数分も進まぬ内に木の株の上に腰掛けている兵隊がいる。よくみるとF上等兵だ(15年兵で指揮班に属す)。「どうした」と尋ねると「T伍長に叱責され、足も手榴弾で負傷しているので歩行も困難だ。ここで死ぬ覚悟だ」という。「馬鹿、ここまで下って死ぬ奴があるか、俺と一緒に下れ、もうこの後は友軍はいないぞ。」と怒鳴りつけ、負傷している所をもう一度しばり直し、私の肩につかまらせて砲兵台より勇川へと下りて来た。その時は午後6時頃であったと思う。かなり暗くなっていた。道は急な崖道で石がゴロゴロして歩き難く、雨のため濡れているのでよく滑る。ましてやFが肩に捉っているので一層足許がふらふらする。10米行っては休み、又少し行っては、休み、昼間ならせいぜい1時間位の行程を実に6時間もかかって漸やく勇川の川岸に辿りついた。この時は全く身心共にクタクタとなり、思わず勇川の水を水筒に2杯呑んだ。汗は流れっぱなしで仲々止まらぬ。ここで暫く休む。時計は午前0時30分を指していた。部隊とはかなり離れてしまったらしい。
 川岸の繁みに人影の動くのが見える。何だろうと近付くとどこかの山砲隊だ。落伍者を待っているらしい。しかし夜が明けると危険だから早く退った方がよい。この台上は敵だと教えてやった。

18.最後の勇川
 2月半前、最初にT上等兵が戦死した地点だ。すっかり様子が変わってしまっている。鬱蒼としていたジャングルもその面影もなく、空がくっきり見える。今まで平地のように思っていた所が樹木がなくなって台上になっていることが判った。
 この勇川の水をどれだけの兵隊が呑んだことであろう。ガ島で豊かに常に流れている川というのはこの川位であろう。そして水も奇麗で冷たかった。糧抹輸送の往き帰りに、必らずこの川のほとりで休んでこの水を呑んだことであろう。
 思えば昭和17年の8月の激戦以来この勇川は常に彼我戦斗の中心となったことであろう。友軍は既に去り、今寂として声なく、静まりかえって大古に帰ったようだ。水の流れのみが聞こえる。
 再びこの勇川に来ることもあるまい。勇川よ、さようなら。この地で死んだ幾多の英霊よ、さようなら。
 しばし瞑想に耽っていた。疲れていたのだ。さあ、道をどうとろうか。既に部隊とはかなり離れていることであろう。川でぷっつり足跡が消えている。この川を下れば海岸に出られるが、海岸道は危険だ。山越えをしようと思って眺めると、無数の足跡がある。これを上って行ったのだなと思い、この急坂を上ることにした。上ること約1時間。遂に草原地帯の見晴しのよい所へ出た。
 ここは追剥ケ原といわれ、糧抹輸送の途次、ここで休憩していると、何処からともなく山賊が現れ、糧抹を強奪されたところだ。もう山賊も現われまい。既に山賊も大半死に絶えたことだろう。よく暗闇を通してみると三々、五々、倒れるが如くにして休憩している兵隊がいる。これぞ一大隊の連中だ。もう中隊へ着くのも間近かと思うと急に元気を失ってしまって、思わずヨタヨタと坐り込んでしまった。涼しい爽かな風が吹いている。気を取り直して更に前進すると、大きな岩の傍らに兵隊が休憩している。三大隊の残党だ、十中隊の姿は見えなかったが(多分全滅した筈だ)十一中隊も九中隊もいた。殆んど数える位の数だ。十二中隊もいた。各隊殆んど同じ位の10名前後の兵力であったように思う。僥幸にもここまでよく生きて来られたものだ。思わず手を取り合って泣いた。
 ここでしばらく休み、更に水無川のジャングルに進む。まだ夜明けにならないので、その間に早くジャングルに入らないと敵の海岸砲が咆り出す。
 水無川に達したとき、一大隊の配属を解かれた。この附近はかつて軍の糧抹集積所のあった所だ。3ケ所の壕の中に糧抹があった。こんな沢山糧抹を何故前線に送れなかったのか。壕の中の糧抹を一寸失敬しようと思って入ろうとすると、いきなり死体が倒れて来た。入口の柱にそって立ったまま死んでいたのだ。
 腹一杯喰べた。急激に喰べると死ぬと聞かされていたので、多少控え目にしたが十分胃の腑を満たした。1日は大丈夫だ。
 1月22日未明のことである。
 雑嚢に米を一杯入れ、次の停止点タサファロングヘ急いだ。最初の上陸地点だ。ここにはM一等兵がいる筈だ。彼は同年兵であったが、体も弱く、ここに残留させられたのだ。しかし私が着いた時は栄養失調で既に何日か前に死んだということである。前線に行かなかった彼も同じように死んだのかと、思わず暗然とした。その死体すらもない。ここでお断りしておきたいのは、時々地名を掲げるがそこには部落もなにもない。唯地点を表示する意味のものであることを承知願いたい。

19.コカンボナ
 勇川より西へ少し行くと水無川がある。水無川の河口附近をコカンボナという。後方地区から前線への中継所となっており、ここには軍の兵站病院や、糧秣、弾薬の集結所もあったと聞いていたが、我々が撤退の途中立寄ったが、そんなものは見る影もなかった。前線からバラバラ退却している者は概ね海岸道を下ったらしく、敵の格好の攻撃目標となり、勇川河口附近は夥しい死者を数えたということである。我が中隊のものでも1人、2人と退ったものは海岸道へ出たらしく、1兵も生還しなかった。
 1月22日未明、水無川入口附近は敵の射つ海岸砲のため死者続出し、ここまで退って死ぬとは全く惜しみても余りがある。我が中隊も伍長とY上等兵がやられた。伍長は砲弾の破片を大腿部に受け、「死んでも内地に帰るんだ」と絶叫していたが、大腿部のため手の施しようがなく、出血多量のため数分にして絶命してしまった。伍長は13年兵の優秀な下士官で何人よりも信頼されていた。惜しい男であり、中隊にとっては大きな損失であった。私はこの砲撃を避けるため海岸の波打際に逃げた。弾の落下地点を見ると、伸びる弾は遥か後方に落ち、伸びない弾は丁度水無川の上に落下していることが判ったからだ。海岸の波打際には大きな爆弾の穴があり、丁度壕の役目してくれたし、同じ所には二度落ちないだろうと、馬鹿げたことを信じてその穴の中に身を隠していた。その内夜が明けると共に砲声も止み、一息ついたので、あたりを眺めると、私とF上等兵の外は誰もいなかった。彼は足先をやられていたが、この時の敏捷さには驚いた。これが砲兵台で一人残り死ぬと云っていた同一人とは到底思えない。元気になったものだ。ビッコをひいていても、いざとなればやはり命は惜しいものだ。
 敵は突撃してくるわけではないから、敵弾に当らなければ悠々と行軍できる。ただし昼間の部隊行動は禁物だ。すぐ発見されてしまう。昼間歩くには1人か2人に限る。しかも海岸道を避けることだ。唯海岸道でないところは道がないから方向を定めて勝手に歩くより仕方がない。

ガダルカナル(6)へつづく