弁護士会報 昭和42年10月号より


ガダルカナル(6)

会 員  山 本 正 男

20.タサファロング
 最前線で撤退の命令を聞いたとき、戦初に脳裏に浮かんだのは、タサファロングであった。上陸地点であったからだ。
 勿論撤退といっても現在地を退くという意味で、ガ島を離れるということは伝達されてはいず、唯一時退却する位の気持しかなかった。とに角タサファロングに着いた。1月23日午後であった。M一等兵も死んだので話相手もいない。部隊が着くのは夜半になってからであろうから、まだ十分時間はある。海岸にでようと思い、海岸に行くと、友軍の姿は見えず、上陸当時そのままの大きな船船が2隻擱坐(かくざ)している光景が目に入っただけである。海には敵の船がときどき往来していた。敵機も飛んでいない。昼間にしてはいやに静かである。この間に休んでおこうと思い、椰子の木陰でグッスリ眠り込んだ。ここ連日夜間ばかり行軍したので疲れがどっと出たのか、、気のついた時は日はとっぷりと暮れていた。そのまま寝ころんで空を眺めていた。今から3ケ月前に上陸したときには未だ元気で、中隊の連中も揃っていたが、あれもこれも死んだ。今生きているのは僅か十指を余すだけとなった。烈しい戦斗の跡を振り返り、よくここまで生き長らえて来たものだと感無量である。天佑という外はない。唯身体は割合に丈夫の方であったが、ボツボツ身体の衰えを感じていた。もうあと僅かしか保たないと思った。
 日本軍が制しているこのタサファロングも数日を出でずして敵の掌中に落ちることであろう。工兵隊は盛かんに戦車壕を掘っていた。敵の進攻を喰い止めるためだ。敵は海岸道を、機械部隊によって攻めてくるに違いない。今までは前線からジャングル内をくぐり抜けて退って来たが、ここからは海岸道を退らなければならないので、海岸道の進攻を妨げる必要があったのである。この意味ではタサファロングは重要な第一線拠点となるであろう。それももう時間の問題である。しかし敵はこれより西方には遂に進攻して来なかった。我々がエスペランスの山に集結したときには、今に日本軍が最後の反撃に出るだろうと予期し、犠牲のでることを恐れたのか、この地点より進攻しなかった。若し海岸道をその尽エスペランスまで突走られたら、我々は一たまりもなくカミンボより海中に飛込まざるを得なかったであろう。しかし猫の額のような狭い地域に集結したのであるから、何事か反撃をするだろうという、敵の買い被りがかえって幸いしたのである。
 夜遅くなって部隊が到着した。これに合流してセキロに向かう。セキロまでは僅かな距離だ。セキロで部隊は集結し、人員を点検する予定である。
 人員の点検というと変な話がある。人員の報告するときには必らず、生存人員何名、その内その位置で斗える者何名、一歩でも前進して斗える者何名、その他何名、と内訳の報告をすることであった。生存者必ずじも戦斗員数ではなかったからである。それ程前線の将兵は参っていたのだ。だから指揮官は戦斗し得る人員を把握したかったのである。
 それがセキロでは人員の報告について「動ける者」と「動けない者」とに分けて報告せよと云って来た。状況は刻々と変わって来ている。一日々々「動けない者」は「死んだ」と「動ける者」は「動けない者」に変わって行く。烈しい人員の異動である。しかし死ぬ人間も少なくなって来た。十名前後の中隊だ。もう何の役にも立たない。唯部隊の驥尾(きび)に附して進むだけの能しかない。すり切れたスリッパ位の用しか役立たない。唯人員が少いというだけではないのだ。もう戦斗するにも体力もなければ、気力も失ってしまっているのだ。僅かな精神力が辛うじて衰弱せる肉体を支えているに過ぎないのだ。正に生ける屍というべきであろう。

21.屍体の山
 セキロは軍の野戦病院のあったところである。セキロに近づくにつれて異臭がぷんぷんとして来た。屍臭だ。流石我々も前線で沢山の屍体を見て来たが、自然に白骨化して行くし、散在しているので屍臭も割と気にならなかったが、ここセキロには病兵が死ぬと、屍体を積み重ねて行き、それが腐って沈んで行くと、更にその上に死体を積むから、同じ場所を屍臭が変動しないのである。屍液がその附近を汚し、とても正視できるものではない。
 丁度板を干すときに井型に積み上げるように死体が積み重ねられており、この山が幾十となく散在しているのである。この無数の屍体の山の光景はとても表現できるものではない。この世とは思えない。正に阿鼻地獄だ。この慄然たる気持は体験せずして到底共感を得られないであろう。ガ島作戦の悲惨の極致である。前線ではなお華々しさがあった。ここでは陰惨極まりなく酸鼻の限りだ。彼らとて、親もあろう、兄弟もあろう、恐らくは万才歓呼で郷頭を送られたことであろう。今見るも無残な姿で瘴癘(しょうれい)の地に朽ち果てんとす。正に痛恨悲涙の極みだ。もうこれ以上筆を進めることはできず、切にその魂魄(こんぱく)の上に安かれと瞑福を祈るのみ。
 セキロに2、3日駐止した。今まで毎日退却していたが、状況の変化があったのか、ここで反撃に転ずるような噂が流れた。今まで流れていた水が逆に戻るかのようにタサファロング方面に向けて進む部隊もあるようである。我々は屍臭を避けて元病院の事務室になっていたような所を占拠して2、3日頑張ることになった。一寸身体に暇ができたので、この間に戦斗詳報を纏めておこうと思い、図嚢(ずのう)からつれづれに書き留めておいたメモを取出し、略図を書き、戦死者の名前と場所とを順次書き入れて行った。百名近くも死んでいるのだ。夥しい数字だ。中隊始まって以来の損失だ。もう中隊の再建は困難であろう。南支以来培ちかって来た精神は潰えてしまったのだ。3年間鍛え合った戦友はもう大部分いないのだ。妙に膚寒い感じが背筋を走った。寂寞感がドット体内を襲った。もう何も考えまい。今日1日の無事を祈って、静かに眠ろう。ウトウトしていると急に起された。
「これから、この先の高地に行って敵の状況を監視せよ、兵を4名連れて行け。帰哨の命令は後で連絡する。」との命令だ。早速無名の高地に登るために準備をし、出発することになった。
 兵隊も無聊(ぶりょう)をかこっていたので格好の憂晴らしと参加してくれた。5名出発することは中隊主力の半数に等しい。あとに残るのはK中尉とK見習士官と2名の下士官と3名の兵位であろう。もう少しいたように思われるが、傷ついたり、病気の者で戦力とはならなかったと思う。

22.ある高地
 高地はセキロから歩いて1時間のところだ。高さは約200米(メートル)の丘であるが、附近には高い所がないので、頂上に立つと附近が一望に収められた。タサファロングが見える。コカンボナが見える。工兵隊が戦車壕を完成したらしい。可成り大がかりな壕だ。これでは戦車は前進できない。
 取り敢えず4人交替で坐哨することになった。一番見通しのきく地点に丁度陽蔭になる灌木があったので、それを背にして坐哨することにした。立哨すると敵から発見される虞れがあるからだ。ここまでは屍臭は届かないし、天気は良いし、空気は澄んでいて、久し振りに爽快な気持ちを味わった。
 明くる朝、K中尉が巡察に来た。異常のないことを報告すると厳重な警戒を続けよとのことで、その日も又監視哨を続けることになった。しかし穴が掘ってないではないかと叱責された。しかし円匙(えんぴ)も十字鍬もない。鉄帽もない。どうしてこの固い土地を掘れというのか。手で掘ったとて知れたものだ。又こんなところで穴を掘っても、その効果があるのか。体力が消耗するばかりだ。凹地を利用すれば十分堪え得ることだ。この戦況で何を云うか。兵の気持はそんな所だ。もう上官なんかを信頼していないのだ。自分の生命は自分で守る知恵は十分身につけている。そんなことはいらざるお節介というものだ。誰も穴を掘ろうとはしなかった。私は兵に静かに体を休養することを命じた。南支以来共に斗って来た顔だ。お互い何を考え、何を求めているか語らずして了解できる仲間だ。
 静かな戦揚だ。敵状には全然異常は認められない。敵は勇川附近からは全然前進していない様子だ。一寸一服の格好だ。
 セキロ附近ではあまり空腹を感じなかったが、多少糧秣の配給が増えたのかも知れない。前線への運搬に時間がかかり、それだけ配給量が前線では乏しかったのであろうか。
 その夕方帰哨の命令が来て、セキロに戻った。エスペランスに向うのだ。その夜セキロを離れ、西方に進んだ。途中の道は泥濘膝を没する湿地帯だ。

23.泥濘行
 セキロからエスペランスの途中の道は約2粁(キロメートル)に亘り湿地帯となっていて、膝まで没する泥濘である。転んだら最後仲々起き上がれない。海岸を行った方がよっぽどましだ。しかし海岸は危ない。この道を通過するより仕方がない。この行軍は難渋を極めた。ここを越えるのに一晩はかかった。しかも真黒暗だ、尺寸先も見えない。唯黙々と先行者の後をついていくだけだ。途中でこの泥濘を這って行く男がある。これなんと、もと中隊に籍があって本部に転属したY軍曹である。ガ島上陸頭初に負傷してそれ以後後方にいたものである。腕をやられたように聞いていたが、足も悪くなったのかも知れぬ。だれもが多少脚気気味ではあったが……
 この行軍途中で彼を救えという声が誰いうとなく、翕然(きゅうぜん)と起こった。自分自体の身体すら持ち兼ねていたのであるが、もうエスペランスも近い。放っておくわけにはいけないという気が皆の心にあったのだ。戦友愛というものか。急造の担架に乗せ、四人掛かりの交替で湿地帯を抜けるまで搬送した。この為にこの男は生きて内地に帰れたのである。どれ程戦友に感謝したことであろう。若し放っておいたら、恐らく泥濘の中で力尽きて絶命していたであろう。丈夫のものでも仲々困難な場所で、しばしば足をとられた所だ。到底生きては帰れなかっであろう。
 この事が後に師団長の耳に達し、これぞ戦友の鑑であると賞讃され、この担架を指揮したT伍長に感状が授与された。人間性が失いつつあったガ島の最後においてもなお人間性は残っていたのだ。清々しい気持だ。この善行は我が中隊の士気を大いに奮い起こさせた。余りにも陰惨なことばかりが続いていた中の出来事であったからだ。さしも苦難のエスペランスヘの道も夜明けまでには了った。夜明けと同時にエスペランスの山が見える。軍はここで暫らく駐留する予定らしい。もうここから進む道はないのだ。カミンボからもエスベランスに向かっているという。どうやらエスペランスが最後の地となるらしい。エスペランスは明るい感じのするところだ。
 エスペランスとはどう意味なのか。それは知らない。何かよいことがありそうだ。前線から60粁はあろう。1日5、6粁位しか進めないのだ。10日間歩き通して来たのだ。よくこの身体で歩けたものだ。自分の足に感謝したい気持ちだ。撤退途中で力尽きて倒れて死んだ者その数を知れず、これが勝戦であったならその大部分は生命を取り止めたであろう。軍は動けない者を捨て置けと命じた。もっとも1人を救けるために4人が犠牲となる状況ではやむを得ない処置であったかも知れぬ。そのような状況ではあったが、何か割り切れないものが心に残る。一定の日時に一定の場所を通過しないとそれ以後は敵とみなすという布告も出された。軍の作戦に支障を来す事情があったかも知れないが、我々兵隊には何のためか判らなかった。敵が俄かに襲ってくる気配もなかったからだ。唯軍の方針としては動けない者を収容していると軍全体の行動に何らかの支障すべき理由があったのであろう。

24.彼我の線
 部隊がエスペランスに集結したのは1月28日頃であったと思う。その頃に妙なことが起こった。それは軍の命令であるということであるが、よくその真相は判らない。エスペランスの東方2キロ位の所に線が引かれ、これより東方は敵線とみなすというのである。従って落伍してこの線より東にいるものは敵とみなされたのだ。我が中隊のO上等兵が未だに帰って来ないので探しに戻ると、この線で遮断せられて、その東へは出されなかったということである。この線を超えると銃殺されるというのだ。えらいことになったものだ。友軍が友軍を射つ悲劇が生まれたのである。
 探しに戻った者の話によるとO上等兵がこの線の東にいることを認めたというのである。救けにもいけないし、本人も足を負傷していて、やっとここまで退って来たが、もう自力でどうしても動けない。剛気な男であった彼も力尽きたのか、この地点まで気力を振りしぼって退って来たが、どうにもならない。虚つろな眼で自己の不運に泣いたことであろう。数日部隊とも離れていたので何も喰ってはいないのだ。力が出ぬのは無理はない。救けんとして救くる能わず全く非情の限りだ。遂に彼もここで置去りとなり、絶命したことであろう。ガ島の撤退中最も後味の悪い一場面であった。

ガダルカナル(完)へつづく