9.生と死との間
人間の運命というものは一寸先は闇である。その日(12月28日)は、大隊命令を伝えるべく中隊拠点へ急いでいた。私の前を一人の兵隊が歩いていた。一中隊拠点近くに来たとき、その地点はジャングルの切れ間になっていて急に明るくなるところである。敵の最も接近している地点で危険地帯であり昼間は殆んど往来しないことになっていた。しかし急ぎの命令であるので危険を承知の上で足速に通過せんとしたところ、轟然一発物凄い砲音がしたので、思わず地上に身を伏せると、今まで私の10米(メートル)先きを歩いていた男の姿が見えない。よく見るとあたりの笹の葉の一面に真赤な血痕が散っているのが見えた。直撃弾を受けたものとみえて一片の肉切れさえもない。完全に昇華してしまったのである。何処の兵隊であるのか分らない。何とも云えぬ恐怖の一瞬であつた。運命は紙一重である。私が今少し進んでいたら私がやられたかも知れぬ。又或る日は夜明け前に頭上の樹の先きで砲弾が炸烈してバラバラと破片が落ちて来た。まだウツラウツラしていたときであったから気にもせず仮眠していると、あたりが明るくなってからU上等兵が壕の中へ入って来て壕の上の土に大きな穴があいている、中へ破片が入っていると云って私の両脚の間を探していたら土の中から直径20糎(センチメートル)位の破片が見付かった。丁度私は両足を開いて壕の壁に背をもたして眠っていたらしく、気がつかなかったが、頭上の蓋を破り、両足の間に落下したのだ。若し両足を接するか、重ねて眠っていたら足をやられ、出血多量で即死するところであった。膚に粟を生ぜしむる気持であった。
又、或るときは私のいるところより5米先に艦砲の直撃弾が落下、そこで仮眠していた一中隊の兵隊が首を切断されて即死したのを目撃した。
又、或るときは撤退途中でグラマン2機に発見され、50米位の高さより機銃掃射を1時間近くも受け、椰子の木の廻りを何十回となくぐるぐる廻って弾を避け命拾いしたこともある。
機上から身体を乗り出して射ってくる姿は全く憎らしい程であった。
私は幾度となく生命の危険にさらされたが、不思議と死ななかった。負傷もしなかった。全く僥倖という外はない。ガ島では敵弾で即死しなくとも、病に冒されること、負傷することは、死に直結していた。医療施設や医薬品が欠乏していたのでそれらの者に対して十分なる治療が行われない。又栄養失調に陥っているので自力で恢復することも困難である。恨みを呑んで、幾千、幾万の将兵が彼の地で死んだか判らない。
病気も複雑なものは多い、マラリヤ、脚気、大腸炎の3種である。通常ならば容易に治し得るものであるが、この為に命を落したものは数知れぬ。
高温で湿気も多く、着替えもなく、着た儘のごろ寝で、これで健康によい筈がない。僅かの期間であれば兎も角100日という期間は余りにも長い。
私は汗のついたシャツはたとえ水洗いでも汗気を取った。無精はいかぬ、適当に運動も必要だ。唯壕の中にいては脚気となる。生きるための智恵は必要だ。誰も助けては呉れない。自分のことは自分で守るより仕方がない。
平常健康な者程早く死んだ。特に郡部出身者に多かった。健康を過信したのと少量の米だけの生活は体力を維持できなかったのであろう。私は小食であったから、それ程体力的衰弱を事更気付かなかった。
しかしもう撤退が1週間遅かったら、完全に参ってしまっていたであろう。既に脚の動きが鈍くなりつつあったからだ。
10.発狂の兵
私の同年兵で、Kという一等兵がいた。喇叭(らっぱ)兵であつた。彼の喇叭は余り鳴ったことがない。お世辞にも上手とはいえず、彼の喇叭の音を殆んど耳にしたことがない。南方作戦で喇叭の必要性はない。喇叭によって士気を鼓舞するという役目はも早やない。今記憶に残っているのは屯営にいるときの起床の勇ましい音、食事の時におけるせわしげる音、就寝の嫋々(じょうじょう)たる音である。
Kは頭の廻転も動作も敏捷という方ではなかったので喇叭兵に廻されたものと思うが、いつも無精髭を生やし、ボソボソとものを云い、余りパッとしない男であった。しかし女のこととなると目を輝かし、得意の話術を振るうには驚かされたことが屡々(しばしば)ある。人間何かの取柄はあるものと感心したものである。
その彼が連日マラリヤの高熱にうなされ、遂に頭が狂ってしまったのだ。ガ島では2、3人入れる程の横穴を掘ってその中で対陣していたのであるが、彼の壕の他のものは戦死してしまい、一人となってしまった。彼が発狂してからはN衛生兵が附添っていたが、一日中監視しているわけではない。或る夜敵の軍司令官より晩さん会に招待されているので、行ってくると云って敵陣の方ヘドンドン歩いて行くのだ。慌てたN衛生兵は必死になってこれを止め、一晩中一緒に居て介抱して、その夜はことなきを得たが、それから日ならずして、彼の姿は見えなくなってしまった。恐らく、頭が狂っていたので敵、味方の区別ができず、敵陣の方へ出掛け、敵弾に当って戦死したと思われるが、その消息は不明のままである。考えて見れば、いつもブツプツと不平そうな顔をしていた彼がこのような結末になろうとは哀れとも、悲惨ともいいようがない。
又同じ同年兵のM兵長の死も悲惨であった。彼は頭の切れる方であったが一寸陰険なところがあり、戦友間では余り評判のよい男ではなかったが、成績は良かったので早く兵長に進級していた。私は彼とは余り心を割って話さなかったが、彼もマラリヤに冒され、頭が狂ってしまったのだ。あの怜悧な男が発狂するとは想像もつかないことだ。
或る夜、三抱えもある大きな木が斜めに倒れていたのを登って行く男がある。5、6米位登ったかと思うとドスンという音がしてその男が落ちて来た。それがM兵長である。何のためにこの真暗な夜に倒木に登るのか。常人は及ばざる行動である。頭が完全に狂っていたのである。頭が狂うと人間は淋しくなるものとみえて真夜中に私の枕下に幽霊の如く佇んでいたことが一再ならずあり、その都度目覚めて、慄然としたことがあった。発狂すると間もなく死ぬ。M兵長も発狂してから1週間か10日位で死んだと思う。精根尽きて朽ちるが如く倒れて死んでいたのを或る朝発見した。その遺体の上に若干の土を被せてやったが、臭気が甚しく逃出して山の上の方へ移ったが、弾が烈しく落下するので、また元の所へ戻って撤退するまでそこに居た。臭気も数日後には気抜けしてしまう。こちらも無表情に慣れるものである。
勇ましい発狂の兵もいた。スコールが降ると滝の白糸でございと大きな声で喚き、○○大夫演ずる水芸よろしき動作をする派手な手合もいた。このような元気な発狂者は2、3日中に死んでしまう。消耗が甚しいからであろうか。
何万という蛆がたかっている屍体があちら、こちらに放置され、発狂の兵が擬態を演じ、骸骨の如き兵隊が戦野に餌物を求め歩く姿は、全くこの世の生地獄だ。鬼気迫るものがあり、これが帝国軍人のなれの果てかと思うと、ゾッとする思いである。
戦争の冷酷非惨極まれりというべし。軍の首脳部はかかる状態がガ島において毎日続けられていたことを知っていたであろうか。敢て目を覆うていたのであろうか。全く救いのない六道である。
11.デマと謀略
このような戦場にはデマが飛ぶものだ。1日も早く苦しい状態から脱出しようとする願望であろう。
「ニュージョージヤ島に日本軍の飛行場が完成し、ガ島の制空権は日ならずして日本軍の掌中に入る、そうなれば食糧も豊富に搬送されるであろう」というニュースだ。飢えている兵隊にとって食糧は何よりの切実な慾求である。このニュースは直ちに全線に伝播した。
しかし幾日経っても友軍機の1機も飛んでこない。その中に飛行場は完成直前敵機の襲撃により壊滅したというのだ。
果たしてやられたものなのか、或いは始めからそんなことはなかったのか。未だにその詳細は知らぬ。とに角ガッカリしたことだけは確かだ。
その次は、新鋭部隊が救援に赴いているから、近く前線交替があり我々は休養できるというニュースだ。
これはとんでもないデマで、これを信用したものは殆んどいない。唯夢寝の間の浅はかな願いとして語られ、早く内地の温泉で静養したいということは何人の胸にもある思いであろう。
それがこんな心にもないデマとなったものであろう。
私が一番困ったのは食糧の欠乏もさることながら、50日以上も煙草を喫ったことがないことだ。1日5、60本位喫っていた私にとってこのことは死ぬより辛いことであった。やむを得ず枯葉を紙で捲いて度々喫ったが咽喉がやられてしまいシャ枯れ声となったことを憶えている。
このような生活の中にも「生きれるだけ生きよう」という気持だけは失わなかった。絶望したときもあったけれども、常に心の灯を消しはしなかった。
敵機から宣伝のチラシをばら撤いて行く。樹上に引掛っているのを見ると、三色刷の奇麗な印刷物である。表は投降文である。「お前達は軍閥に躍らされているのだ。お前達の家族は内地でひどい生活を強要されている。お前達は何のために斗っているのか。速かに無益な抵抗を止めよ。内地に帰りたくないのか。」そして裏にはかつての平和の時代における一家団らんの風景が画入れで印刷されている。望郷の念をかきむしるような文章であり、戦意を喪失させること甚しいものがある。
軍は直ちに焼き捨てるよう命じていたが、こっそり読んでいる兵は数多くいた。
しかしこれによって日本軍の士気はいささかも衰退を見せなかった。投降が死につながっていることを知っていたからである。ガ島では敵はまだ虫の息とはいえ生きている日本兵を戦車の下敷にしたことを伝え聞いていた。
後で聞いたことであるが、ガ島で捕虜になって終戦後帰還した者が数名あるということであるが、それは恐らく戦斗中の捕虜でなく、我が軍がガ島より撤退した後に乗船し損なった者が捕虜となったものではないかと思う。
戦斗中投降した者の話は聞かない。動けない者は自決したし、生命のある限り戦って死んだのだ。少なくとも撤退のときまで投降者は全然なかったと思う。
12.脱走
ガ島の戦斗態形がどうなっていたかは我々兵隊には判るべくもなかったが、右翼のアウステン山に第二大隊、中間の見晴台に第三大隊、歩兵団司令部、その後方九〇三高地に第三八師団司令部、左翼の境台に第一大隊、その後方に連隊本部、最左翼の海岸線に近い所に第二師団がいたものと思われる。
我が第一二中隊は第一大隊の指揮下にあって、境台の左翼に対陣していたのである。昭和17年暮から同18年頭初にかけては戦線は膠着し、唯敵が連日定期的に射つ銃弾の響のみがジャングル内にこだましていた。その間にも弾に斃れ、病に冒され、栄養失調で幾多の兵士が毎日毎日死んでいった。
1月10日過ぎから、敵は急激に攻勢に転じて来た。T少尉は第一小隊の指揮をとっていたが、或る日敵弾のため右眼をやられ、前線を退がることになった。そうすると当然上席の下士官であるK軍曹は第一小隊の指揮を代わってとらざるを得ない。しかしその任務は重く、危険度も高い。K軍曹は下士候の出身ではあるが、およそ小隊を指揮する気魄も能力もない。唯兵隊では損だという功利的な気持から下士候を志願し、辛うじて下士官に仕官したに過ぎず、平常から部下の信頼感は全然なく、部下を指導教育するという念にも欠けていた。
小隊長が前線を退るとその夜、敵弾の音もしないのに、やられたと左腕に自ら包帯をして、中隊長にも報告せず、勝手に前線を離脱して後方へ逃走してしまった。
そして大隊本部の所にいた私の所に朝早く立寄り、食糧を求めた。しかし前線から何の連絡もないが、一応給与することはしたが、その午後私は大隊本部附近の警備につくことを命ぜられ、各隊の残党を引連れて分哨に行くことになった。そこで私はU一等兵にK軍曹は危険な奴だから絶対壕を離れるなと命じて分哨に出掛けていった。ところが翌朝帰ってみるとK軍曹の姿が見えない。U一等兵に開くと、昨日水汲みに行った留守中に何処へ行ったか分らなくなったという。急に不吉な予感に襲われて壕の中を覗くと、昨日あった中隊用の食糧が見当たらないし、雑嚢(ざつのう)に入れてあった200円ばかりの金もなく、I軍曹の遺品である軍刀もない。てっきり奴にやられたと地駄んだ踏んだが後の祭りであった。後方地区ではバットやほまれ(煙草の名)が1箇10円位で闇取引されていることを聞いていたので、われわれが使いものにならないと思っていた軍票が結構役に立っていたらしい。
私が分哨から帰って間もなく、中隊からK軍曹を知らないかといって来た。話を聞くと、自ら拳銃で自分の腕を射ち、卑怯にも前線を脱走したことが判明した。私は直ちに連隊本部に連絡をとり、取押方を求めたが、1日違いで更に後方に逃げたらしい。その後杳としてその消息はわかっていない。
ガ島戦では撤退するまで上陸部隊は一兵たりとも島を出られなかったから、撤退するとき他の部隊にまぎれ込んで逃帰ったらしい。ひどい奴があったものだ。前線では血潮を流して戦っているのに、この国賊は悠々と後方の何処かに潜んでいたのだ。取押えられたら軍法によって銃殺刑に処せられたであろう。さきにもふれたが、岡部隊の残党を笑えない。終戦後私は名古屋で見掛けたような気がするが私の錯覚であったかも知らぬ。あのような精神ではろくな生き方はできぬ。
戦いは悲惨で、無情この上もなかったが同じ戦場にあったものは共に苦しみ、共に生き、共に死んで行ったのである。この意味において私は彼を許すことができない。
彼の小隊の兵士はその後数日を出ずして敵の猛攻の前に全員戦死してしまったのである。時に1月14日のことである。
彼が前線に残して来た部下は全員戦死したが、いずれも国難に殉じ壮烈な死を遂げた。死してなお余栄ありと云うべく、彼は生きて汚名を曝したのである。
人間は義を重ずることによって生の価値がある。徒らに死を恐れ、況んや前線に部下をしてその帰趨する所を迷わしめるようなことは断じて許されないところである。
ガダルカナル(4)へつづく
|