弁護士への道(第5回) 会報「SOPHIA」平成20年5月号より 


「弁護士への道」第5回 ロースクール その3

会報編集委員会

1 別 離
 菊野はX大学ロースクールの3年生になった。思えば、あっという間の2年であった。入学した頃には法律の「ホ」の字も知らなかった菊野が、今では憲法、民法、刑法などの概説書を一通り読みこなし、ちょっとした討論もできるようになった。毎日、朝から晩まで勉強しているのだから、当然といえば当然なのだが、それでも大きな成長である。
 しかし、この2年で菊野の生活は一変した。社会人の頃は営業職だったこともあって、とにかく飲み歩く機会が多かった。ひどいときは2週間ぶっ続けで、接待や上司のお誘いがあった。また、収入のうち、家に差し入れる生活費と貯蓄を除いた全てのお金を自由に使うことができた。だから、決して贅沢はしなかったが、それでも、デートや買い物のときには、わりと自由がきいた。日本の20代のサラリーマンは、だいたい皆こんなものだろうと菊野は思い、それが多数派に属しているという安心感にもつながった。
 しかし、ロースクール生になってからは、飲みに行く機会はほとんどなくなった。いや、それ以前に、他人との付き合いが希薄になった。社会人をやっている友人と話が合わなくなったことも一因といえるのかも知れない。切り詰めた生活をしているため、遊び金を捻出できないのも一因といえるのかも知れない。しかし、何よりも、次から次へとやってくるロースクールの予習・復習の波と精神的なプレッシャーのせいか、菊野は、友人と会っていても、以前ほど面白いとは感じないのだ。
 では、ロースクール生との付き合いを深めればよいと思うかも知れない。しかし、ロースクールの仲間との話題といえば、結局、法律のことである。つまり「新しく出た○○先生の本がいい」とか、「△△説だとこうなるけど、□□説だとああなる」的な話ばかりである。菊野は、この手の話題がかなり嫌いである。講義や演習は別にしても、勉強なんて自分一人で黙ってやればいいではないか、といつも思っている。この点、菊野と同じ社会人経験者である入谷(3月号参照)は、適度にロースクール生同士の法律談義に加わり、だからと言って決して深入りはせず、なかなか上手である。これに対して、菊野は堅物というか不器用である。菊野の不満は、結局、解消のしようがないのだが、菊野が、ロースクールで竹林の七賢の清談みたいなことをやっていて、果たして良い法律家になれるのか、ときどき不安に駆られるのも事実である。
 そして、この2年間で菊野にとって最も大きな事件は、彼女と別れたことである。
 彼女とは、婚約はしていなかったが、将来を語り合った仲である。菊野がロースクールを目指すと宣言したときには、彼女も応援してくれたし、ロースクールに合格したときは、自分のことのように喜んでくれた。
 しかし、菊野がロースクール生になってからは、彼女と平日に会う機会はなくなり、休日に会う約束をしても、菊野は予習・復習が気になって、デートの約束をドタキャンすることも一度や二度ではなかった。普通の社会人が共有するような話題にも、菊野はだんだんついて行けなくなり、ひどいときには彼女にソクラテスメソッド(4月号参照)を挑んでしまったこともある。こうして彼女とのすれ違いが続く中、菊野が、彼女との結婚資金として貯めた200万円をロースクールの学費に充てていたこと(1月号参照)が発覚し、いよいよ彼女との溝は決定的となった。
 ロースクールに入ったからと言って、必ず弁護士になれるとは限らない。彼女も、菊野のギャンブルにいつまでお付き合いすればよいものか、相当に悩んでいたようである。
 ある日、菊野は、そんな彼女の気持ちを察し、自分から別れ話を切り出した。彼女の最後の言葉は「頑張って、いい弁護士になってね。」であった。

2 カリキュラム
 さて、3年生になってからも、相変わらずロースクール生はカリキュラムに追われる。しかし、ロースクールも後半に進むと、通常の講義だけでなく、模擬裁判やエクスターンシップ(学外研修)が組み込まれている。
 模擬裁判は、実際の法廷を再現した教室を使って、学生が裁判官、検察官、弁護人の役になりきって架空の裁判を行う。準備は大変だが、教室で講義を聴くよりもずっと面白い。
 エクスターンシップでは、実際に法律事務所にお邪魔して、実務研修をさせてもらう。しかし、エクスターンシップの期間は約2週間と大変短いため、あっという間に終わったというのが率直な感想である。
 模擬裁判やエクスターンシップに取り組んでいる間、菊野は、ロースクールが実務家を養成する機関なのだと少し実感していた。
 しかし、菊野は、ロースクールのカリキュラムについて、いささか不安を感じている部分もある。それは、ロースクールが、従前の司法修習における前期修習の部分をきちんとカバーしているのか、ということである。今までの司法修習では、前期修習で「白表紙」というテキストを使いながら、訴状、準備書面、保全申立書、弁論要旨等の起案を繰り返し、実務を意識した教育がなされていたそうである。ロースクールができて前期修習は廃止され、今まで前期修習でやっていたことはロースクールでやることになった。
 しかし、これまで菊野は、訴状と弁論要旨を1通ずつ書いただけである。これで本当に大丈夫だろうかと思い、研究者教員に尋ねてみると、「私には分からないから、実務家教員に聞いてくれ」。実務家教員に尋ねてみると、「実務修習でやるから大丈夫だ」。

3 新司法試験の準備の必要性
 ロースクールの場合、法学部と違って、卒業したら終わりというわけにはいかない。卒業してから間もなく、新司法試験が始まるのである。
 菊野も、当然ながら新司法試験のことは、常に気になっている。当初は8割くらいが合格すると言われていたのに、蓋を開けてみたら合格率は4割くらいだったとか(平成19年度)、今後は前年度の不合格者が参加するから、もっと合格率は低くなるだろうとか、菊野にとっては耳をふさぎたくなるような情報も流れてくる。菊野は、新司法試験については、医師国家試験と同じように、大学を卒業すれば大半が合格するものだと思っていたが、どうやらだいぶ話が違うらしい。
 3年生になるまで、菊野は、何か特別に新司法試験に向けた準備をしたことはない。それは、菊野が、ロースクールの講義や予習、復習で手一杯だったからでもあるが、それ以前に、新司法試験の準備と言っても、一体何から始めてよいものか、よく分からなかったからである。
 新司法試験は、短答式試験と論文式試験で構成される。短答式試験は、問題文を読んで正解を選び、マークシートに記入する択一試験である。論文式試験は、長い問題文を読んで、まとまった量の文章を書いて回答する筆記試験である(詳しくは、次号以下で取り上げる予定である)。
 菊野は、とりあえず試しに、いわゆる過去問にチャレンジしてみた。実際に昨年の新司法試験に出題された問題である。しかし、恐ろしいことに全く歯が立たない。短答式と論文式の両方ともである。短答式は、問題文を読めば出題の意図はだいたい分かるのだが、いざ回答しようとすると色々と迷ってしまい、長考に入るとすぐに時間オーバーである。論文式は、問題文が非常に長く、読みながら問題文を整理するだけで、かなりの時間を取られてしまう。そして、慌てて書いているうちに別のアイデアが浮かび、書き直しているうちに、こちらも時間オーバーである。
 過去問をやってみて、菊野は背筋の凍るような思いをした。これは早く準備を始めないと、大変なことになる・・・。

4 ロースクールの新司法試験対策
 新司法試験も試験である以上、技術的な要素は無視できない。従って、ロースクールが試験対策を立てるとしても、それは必然的に「傾向と対策」を強く意識した受験対応の教育になってしまう。しかし、ロースクールは、従前の一発試験による選抜制度を否定し、「プロセス」としての法曹養成制度を新たに整備するという理念の下に生まれた教育機関だったはずである。そのようなロースクールが、受験対応の教育を堂々とやっていては大問題であり、文科省公認の司法試験予備校であると非難されても文句は言えまい。
 しかし、どのロースクールも自校の学生には、当然ながら、新司法試験に多数合格してほしい。だからこそ、このようなジレンマを感じつつも、各ロースクールは、さりげなく試験対策を講じているのである。
 例えば、菊野の行っているX大学ロースクールでは、講義の初めに、毎回必ず、短答式の小テストを実施する教授がいる。論文式については、演習という名目で、実質的な新司法試験対策が行われている。この演習では、新司法試験を意識した創作問題が配布され、学生は時間内にこの問題を解き、教授や弁護士チューターが答案を添削し学生に返却するのである。このほか、日曜日に弁護士チューターがやって来て、演習とは別に過去問などを題材にしたゼミも開催されている。このゼミで重視されているのは、もはや基本原理や論点や学説の理解ではなく、答案の書き方や時間配分といった受験テクニックである。
 弁護士チューターの話によると、旧司法試験の時代は、答案練習会(答練)が最も重要な試験対策であり、どの受験生も合格を目指して答練を繰り返し、書くための訓練を積んでいたとのことである。
 菊野は、3年生になってから、このような演習やゼミを積極的に受けている。
 なお、菊野の同級生の中には、密かに司法試験予備校に通っている学生もいる。彼らは、予備校で答練を主体とした講座を受講しているようだ。菊野は、また何十万というお金がかかるので予備校には通っていないが、仲間から予備校で出題された問題をまわしてもらい、自分で解いてみることもある。
 定期的に予備校に通っているロースクール生は、それほど多くはなさそうだが、単発の模擬試験(模試)を受ける人はかなり多い。模試は全国レベルで行われており、実際の新司法試験と同じスケジュールで短答式と論文式を実施する。菊野も、力試しにと思い、3年生の初めに模試を受けてみたが、結果は散々であった。ちなみに模擬試験の受講料は、短答式と論文式がセットになっていて、添削付の場合は約7万円であった。

5 卒 業
 こうして菊野は、ロースクール最後の1年を何とか乗り切り、無事、卒業に必要な単位を取得することができた。3年で卒業するのは当たり前のように思うかも知れないが、単位が取れずに留年する学生も結構いる。それに、実は途中でロースクールを辞めていく学生も少なくない。ある人は仕事の都合で辞め、ある人はお金が続かずに辞めていった。健康を害して辞めていった人もいれば、勉強について行けずに辞めていった人もいる。ロースクールの3年間は、決して楽ではないのだ。
 菊野は、学部生に混じってX大学の卒業式に出席した。張り切って袴を履いてきたロースクール生もいた。抜群の成績で総代を務めた入谷は、最後までクールであった。
 菊野は、お世話になった教授に挨拶をし、様々な思いを胸にしながらX大学を後にした。
 次は、いよいよ新司法試験である。

弁護士への道 第6回へつづく