弁護士への道(第4回) 会報「SOPHIA」平成20年4月号より 


「弁護士への道」第4回 ロースクール その2

会報編集委員会

1 講義とチューター制度
 X大学ロースクールの未修者コースでは、1年生のときに、憲法、民法、刑法、会社法の全部、民事訴訟法の第1審手続まで、刑事訴訟法の捜査と公判、行政法総論を必須科目として習得しなければならない。憲法は人権と統治に、民法は総則・物権、債権総論・各論、事務管理・不当利得・不法行為と家族法に、刑法は総論と各論に、それぞれ分けて講座が設定され、研究者教員と呼ばれる学者の先生が担当する。このような仕組みは、菊野が学部生だったときと一緒で、同時並行でこれらの講義が進んでいくのも学部と一緒である。
 しかし、このような基本法律科目の講義があるのは1年生のときだけである。2年生や3年生では、演習講座、公法総合演習、民事法総合演習、刑事法総合演習といった科目が中心となる。このような科目を通じて新司法試験の合格レベルに達しなければならないし、2年生や3年生で受講する他の法律科目では、1年次の基本法律科目を完全に習得したことが当然の前提になっている。
 このようにロースクールでは、もの凄いペースで講義が進められるのである。ロースクール以前の司法試験受験生で、憲、民、刑、商、民訴、刑訴を1年や2年で合格レベルまでマスターした人は、ほとんどいなかったにもかかわらず、である。
 ところで、X大学ロースクールでは、正規の講義を補うという名目で、チューターと呼ばれる若手弁護士による補講が用意されている。ここでは、司法試験の過去問や巷に出回っている演習問題などを題材に、チューターによる答案の添削・解説が行われている。しかし、教授の話によれば、ロースクールでの講義は司法試験に偏重したものであってはならないという制約もあるため、このような補講をどこまで大々的にやってよいものか、難しい問題とのことである。そもそも、菊野は正規の講義の予習・復習で手一杯なので、チューターの補講への参加には躊躇しているところである。参加したロースクール生の話では、補講の参加者は回を追うごとに少なくなり、現在では2、3名しかいないそうだ。2、3名のために、忙しい本業の合間に補講の準備をするチューターも気の毒だ。
 ガイダンスの際に配布されたシラバスには、講義に使う教科書、参考書、判例集が指定されている。教授の指定する教科書は、新書版だったりハードカバーだったりとまちまちである。菊野は、大学の生協へ行き、シラバスで指定された書籍を一とおり揃えたが、これがかなりの出費であった。
 講義の前には、レジュメが配布され、事前に読んでおくべき判例のタイトルと判例集のページ数が指定される。講義の後に復習として提出すべきレポートの課題が指定されることもある。レジュメの配布や課題の指定も、教授から全てインターネットを経由して講座ごとに用意されたウェブサイトに掲載される。菊野たち受講生は、このレジュメや課題をダウンロードし、必要に応じてプリントアウトして講義の際に持参しなければならない。提出するレポートは、インターネットを経由してウェブサイトに掲載される。菊野は、新卒のロースクール生がA4で8枚書いたとか10枚書いたとか話しているのを聞き、なぜそんなに長いレポートが書けるのか不思議でならなかったが、その後、どの講座でも提出するレポートの枚数や字数が指定されていることに気づき、ちょっと安心した。教授も、長々と学説や判決文が引用されたレポートを読むのは苦痛なのだろう。

2 ソクラテスメソッド
 講義は、どの講座も、教授が受講生に問いかけ、その回答を踏まえ、さらに教授の質問と受講生の回答が続き、ときには受講生同士で討論するというソクラテスメソッドと呼ばれる方式で進められる。菊野が受講している刑法総論の講義を少しだけ覗いてみよう。

教授:AがCに2時間後に確実に効く毒薬を飲ませた直後にBがCを射殺した。AとBの罪責はどうなりますか。

菊野:Aは殺人未遂、Bは殺人既遂です。

教授:Aは毒薬を飲ませているのに未遂なのはなぜですか。Bが射殺しなくてもCは毒薬で死ぬのにBが既遂なのはなぜですか。

菊野:CはBに射殺されて死んだからです。

教授:このときの結果は何ですか。Cが死んだということですか、Cが射殺されて死んだということですか。

菊野:結果はCが死んだということです。

教授:結果がCの死という抽象的なものであれば、人間はいつか必ず死ぬのだから、Bも未遂ではないですか。

菊野:それでは殺人既遂ということはあり得なくなってしまいます。

教授:そのとおり。刑法における結果は具体的な結果として捉える必要があります。結果を抽象化する際には抽象化の度合いを測る基準がありません。「その行為が無かったらその結果は無かった」という条件関係が必要なのです。

    では、刑法上の因果関係の存否の判断についてのわが国の判例の考え方は。

菊野:行為と結果との間に条件関係があれば刑法上の因果関係を認める条件説です。

教授:学説は判例のとる条件説に対してどのように批判していますか。

菊野:刑法上の因果関係が余りに広く認められるという批判です。

教授:AがBを殴ったらBは脳梅毒に罹患していたために死亡した。AはBが脳梅毒に罹患していることを知らなかった場合に刑法上の因果関係の存在を否定する考え方は何ですか。

菊野:相当因果関係説のうち主観説と折衷説です。

教授:刑法上の因果関係は構成要件該当性の有無の判断としての客観的帰責の問題です。客観的帰責の判断に行為者の認識の有無という主観を考慮することは妥当ですか。客観的相当因果関係説が有力なのはこの点にあります。近時は、ドイツの学説の影響を受け、わが国の刑法学会でも客観的帰属論が有力となっています。客観的帰属論とは…(以下省略)。

 菊野が読んだ教科書には折衷的相当因果関係説が妥当だと書かれていたので、菊野は教授とのやり取りに困惑した。菊野には、ドイツの学説や近時の日本の刑法学界の動向が、法律実務家になるために必須の知識なのかどうかもわからない。菊野が読んだ教科書には何も書かれていなかったからである。ただ分かっていることは、刑法総論の担当教授の主な研究分野が、客観的帰属論だということである。結局、この教授は、3回分の講義を因果関係だけに費やし、講義の時間が足りなくなったためか、最後のほうの共犯論は、すごい勢いで駆け抜けていった。
 他方、菊野が履修した「民事裁判基礎」では、現役裁判官が講師となり(実務家教員と呼ばれる)、訴状の提出場所や受理された訴状の振分けや訴状の審査の内容について次々と受講生に質問していた。こちらは、ずいぶんと実践的な講義だ。民事裁判の実務からドイツの刑法学説まで、学ぶべきことの多さに、菊野は前途の多難さを毎日痛感していた。
 ところで、ロースクール生の多くは講義の際のノート取りにもパソコンを使う。受講生が講義でもパソコンを使えるように、各机には電源が準備されている。ロースクール生の多くは、指定された教科書、参考書、判例集、六法、プリントアウトしたレジュメとノートパソコンを抱えて教室に入る。パソコンの得意でない菊野は、講義の際にノートを広げてボールペンでせっせと筆記するが、これは少数派である。
 今日の講義でも、教授の声、質問に答える受講生の声、それにパソコンのキーボードを叩く音だけが聞こえてくる。

3 予習と復習
 ロースクールでは1日に5コマの講義があるが、1限目から5限目まで講義が詰まっている日はない。そこで、空き時間、講義の前後に予習・復習の時間を確保し、それでも足りなければ土日を使って予習・復習するのが一般的である。
 ガイダンスでは、90分の講義1コマにつき90分の予習と90分の復習が必要だと言われた。しかし、実際に始めてみると、とても90分間では予習が終わらない。事前に指定された範囲の教科書と参考書を読み、指定された判例を読むだけで、あっという間に90分を過ぎてしまう。しかも、ただ読むだけでは足りない。講義のとき教授の質問に答えられるように、しっかりと読み込む必要がある。復習も大変だ。講義で学んだことを書き加えながらノートを作り、さらにレポートなどの課題にも対応しなければならない。レポートの作成時間を除いても、とても90分では足りない。菊野だけでなく、他のロースクール生も、90分の講義に対して、予習・復習にそれぞれ2〜3時間は費やしているようだ。おまけに、熱心な教授は毎回のように小テストを実施する。小テストとはいえ、成績に関係する以上、手は抜けない。小テスト対策も、予習時間が大幅に増加する原因となっている。
 どう考えても時間が足りない。菊野は、時間配分について試行錯誤した結果、次のような方法に落ち着いた。日曜の夕方から木曜まではその週にある講義の予習だけを行う。金曜の夜と土曜の全部と日曜の日中をその週の講義の復習にあてる。月曜の講義の復習を金曜まで先延ばしにすることは必ずしも効率的ではない。しかし、菊野には、とにかく1コマ90分の講義につき3時間の予習が必要なのだから、1日に3コマの講義がある場合は、9時間の予習時間が必要なのである。このような予習中心のスタイルは、どのロースクール生も似たり寄ったりである。
 多くのロースクール生は、朝8時30分までに登校し、まずは自習室で勉強を始める。そして、講義のときは、自習室から色々な荷物を抱えて教室へ移動する。中には、運搬用のプラスチック製のカゴを使っている学生もいる。講義が終わった後は午前0時近くまで自習室で勉強する。
 このように、ロースクール生にとって自習室で過ごす時間は非常に大切である。そのため、X大学ロースクールの自習室は、机ごとに左右と正面がプラスチック製の衝立で仕切られていて、他の学生が視界に入らないようになっている。もちろん、私語は厳禁である。中には、自宅で勉強する学生もいるが、元来誘惑に弱い菊野の場合、自らを奮い立たせて勉強するためには、周囲がひたすら勉強している自習室の雰囲気が必要である。
 今日も、菊野は、終電で帰るロースクール生がいなくなるまで自習室の机にへばりついて猛勉強をしている。

弁護士への道 第5回へつづく