会報「SOPHIA」 平成25年12月号より

私のターニングポイント
高齢者・障がい者問題にかかわって


熊  田   均

1 私は、現在、日弁連 高齢者・障害者の権利に関する委員会の委員長を仰せつかっています。何故かこの分野に長く関わってしまいました。今更このきっかけは?と聞かれても忘却の彼方なのですが、この分野に足を踏み入れる際のいくつかの過去の「きっかけ」をつないでみたいと思います。


2 きっかけ@−言葉「囁き」(ささやき)

私が弁護士になった1987年頃は、禁治産制度等の時代で、「高齢者問題は委任能力が不十分な人の問題だから、この分野の仕事は避けた方がいい」といわれた時代でした。1993年頃、私が修習生時代に修習委員であった先輩に誘われ、高齢者問題の勉強会に参加するようになりました。ちょうどその頃、禁治産制度等の改正を検討する日弁連PTが作られることになり、その元修習委員に「猛者(もさ)の弁護士と知り合うきっかけになる。それが弁護士人生を変える」と囁かれ、その言葉に引かれるままにそのPTに参加しました。私はカナダ・アメリカ班に参加し、先進国の各成年後見担当機関等を調査し(1995年欧米6カ国の成年後見制度調査報告書参照)、制度に関わる海外の人々の息づかいを目の当たりにしました。そして、日弁連「成年後見制度大綱」を皆で仕上げました(今でもこの大綱は現行法より優れている?との自負があります)。「囁き」を受け入れたことがすべてのきっかけでした。


3 きっかけA−正論に直面して

現行制度ができた直後の2000年頃、ある高齢者の施設長が「今後は判断能力が不十分な方の入所は、成年後見制度を利用しない限り入所させない」と宣言しました。私の担当する利用者も該当しました。行政や地域は暴論であると批判しました。しかし、契約論からいえば正論であり、意見交換する中で彼は、法律家以上に成年後見制度を普及させるための思いを述べられました。「弁護士さんは福祉分野の無法状態の実態を知らなさ過ぎる。福祉の言葉も知らなさ過ぎる。それで法律のプロである弁護士なのか」と糾弾?されました。これをきっかけにその施設長とともに法人後見センターの設立に関わり、その後も色々な福祉関係者と共に福祉・法律の架け橋作り・共通語作りにも関わるようになりました。突きつけられたこの正論がなければ別の弁護士人生だったかと思います。


4 きっかけB−うさぎの絵

2002年頃、ある法人後見センターの仕事の中で、亡被後見人の唯一の相続人である女性が約1500万円の預金の相続を強く拒否したことがありました。50年以上前に私を捨てた母親の財産など受け取れないということでした。ようやくお会いできたものの敵視される中、遺品を説明する中で通帳や印鑑と同じ「貴重品袋」の中からクレヨンで画用紙に書かれた1枚の「うさぎの絵」が現れました。この絵に書かれたたどたどしいひらがな署名が相続人の文字であるとわかった時、その相続人は放心状態のまま言葉少なめに全ての財産の引き継ぎを受けました。それぞれの人生を垣間見た思いでした。私はもともと「切ったはったの業務」は苦手でしたので、こういう分野の方がストレスなく長く続けられるかと改めて思った機会でした。


5 弁護士は誰もが最初からしっかりした目標をもって分野を選ぶことはできないかもしれません。ただ、私のように何かの機会に自分に向いている分野に自然に導かれこともあるかと思います。若い方々に対する経験談のひとつとして理解して頂ければ幸いです。