会報「SOPHIA」 平成23年6月号より

投稿 東日本大震災を女川町で被災して



仙台弁護士会会員(愛知県出身)
前 田 拓 馬

当会は、東日本大震災における避難所での無料相談のため、平成23年4月29日から5月1日までの3日間、10名の会員を宮城県に派遣しました。その際、派遣先である女川町、石巻市において、案内役を務めていただいたのが、仙台弁護士会の前田拓馬弁護士(60期)です。

前田弁護士は、女川町において自ら被災されており、その体験談について、このたび当会会報にご寄稿いただきました。被災の一部始終が克明に記録され、大津波に襲われた被災者の状況をリアルに追体験できる、非常に興味深い内容の手記ですので、ぜひともご一読いただければ幸いです。



  1. はじめに

    はじめに、東日本大震災により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、被災された皆様に、心からお見舞いを申し上げます。
    私自身、今回の震災を宮城県牡鹿郡女川町で被災し、地震だけではなく、津波にも遭遇したことから、その際の被災体験をご報告いたします。



  2. 女川町にいた経緯

    まずはじめに、そもそもなぜ私が震災時に女川町にいたかについて、お話ししたいと思います。
    私は、愛知県小牧市の出身ですが、東北大学に進学したこと等がきっかけで、平成19年12月に仙台弁護士会に弁護士登録することとなり、勤務弁護士を経た後、平成22年10月、石巻市にて「いしのまき法律事務所」を開業いたしました。

    被災当時は、事務所開業から半年近く立ち、おかげさまで順調に仕事も増え、講演の依頼なども時々いただく状況でした。そして、女川町役場からも民生委員や高齢者向けに悪徳商法についての消費者講座を講演してほしいとの依頼をいただいておりました。震災の起こった3月11日は、女川町役場の依頼によって、女川町で3回目となる消費者講座を開くべく、女川町に出張していました。そして、私は、3月11日午後1時30分から1時間の予定で、女川町立生涯教育センターの1階大広間にて、30名ほどの老人クラブの皆さんの前で、振り込め詐欺・悪徳商法などの講演をしていたのですが、その結果、私は、偶然にも女川町で被災することになったのです。



  3. 大地震、そして押し寄せる津波
    (1)大地震について

    日本中が揺れた3月11日午後2時46分、私は講演を終え、町役場の担当者と会場の後片付けをしておりました。すでに講演を終えていたため、講演を聴きに来ていた老人クラブの方々は大半が帰っており、帰り支度をしていた方も、地震後、急いでご自宅に帰られたようでした。大地震で揺れたとき、私も町役場の職員も立っていられなかったものの、3月9日にも大きな地震が起きていたことから、それほど動揺はありませんでした。私は、職員と協力して、余震の合間に灯油ストーブを消したり、地震によって倒れそうなものをあらかじめ倒したりなど、冷静に地震をやり過ごしていました。

    そのうち、津波が女川町に午後3時ころ到達する旨の予報も出されました。私は、その日特段予定がなかったことから、念のため津波が到達した後に石巻の事務所に帰ることにしました。そして、町役場の職員と生涯教育センターの2階に避難して、津波が到達するのを待っていました。2階に避難していたのは同センターで勤務する町役場の職員が多かったのですが、皆で昭和35年に起きたチリ地震のときは女川駅のホームが少しぬれた程度だったという話をしていました。今思えば、かなり楽観的な感じだったのですが、津波が実際に来るまでは、まさか町全体がなくなるような大津波が来ることは誰も想像していませんでした。



    (2)津波第1波について

    私はちょうど生涯教育センターの2階から自分の車を停めた駐車場が見える場所に待機していました。午後3時15分ころ、海のほうから、大雨で排水溝に流れきらない際の濁流のように、激しい勢いで海水が流れてきました。当初は自分の車の車体が濁流に浸からないといいなと思って見守っていました。そうしているうちに、海側の道路から車が2台ひっくり返って流れてきたので、自分の車とぶつかるかなと思って見ていたら、私の車にぶつかることなく、私の車とともに流されていきました。このあたりから、周りの様子も変わってきて、水が止まらないからとにかく上の階に避難するようにとの指示が飛び交い、状況も確認できずよくわからないまま、生涯教育センターの最上階である5階の機械室に避難しました。途中、何度か建物に何か(外の様子を確認していた職員の話では、船1隻と民家2棟がぶつかっていたとのことです。)が衝突する衝撃で建物全体が揺れました。しかし、上の階に上がる階段や機械室には海側の様子を窺える窓はなく、館内にいた人たちは、とにかく町役場の職員の指示に従って機械室に集まったという感じでした。


    津波到来直後の女川町の状況(前田弁護士撮影)


    (3)機械室での出来事

    機械室で待機してまもなく、機械室にものすごい突風が吹き込みました。そして、ちょうど機械室の入り口にいた女性の腕が機械室のドアに挟まれてしまいました。そのため、近くにいた町役場の男性の職員3人と協力し、ドアが突風で完全に閉まりきって女性の腕がもげないように、必死に押し返したりしていました。

    突風が止んだ後まもなくして、機械室と外をつなぐドアあたりから徐々に浸水し、ちょうど水を出しっぱなしの浴槽の中に立っているような感じで、じわじわと私の膝と腰の間くらいまで水位が上がってきました。機械室に避難した方の中には、足が不自由な車椅子のおばあさんや3歳と5歳の子どもを連れたお母さんなどもいました。そのため、町役場の職員と協力して、まず子ども2人とお母さんを機械室のボイラーの上に避難させて、その後、車椅子のおばあさんを4人でボイラーの上に担ぎ上げて避難させました。そうこうしているうちに、第1波の津波は水が引いていきました。

    これは後から聞いた話ですが、災害対策本部の置かれた高台の小学校からは、私達が避難していた生涯教育センターは屋根の先端を残して大部分が水没し、同センターの上を船が通過していた様子が見えたそうです。また、第1波が押し寄せている途中、津波の様子を確認するために職員が外に通じるドアを開けたところ、2人が外に引き出され、ベランダの柵に引っかかって助かったことも聞きました。

    突風が吹いたあたりから何がどうなっているのか考える暇もなく、次々と起こる状況に対応するので精一杯で、正直、死への恐怖とか、このまま天井まで水位が上がったときのことなどを考える余裕はありませんでした。もちろん今までの人生が走馬灯のように頭を駆け巡ることもありませんでした。


  4. 長い夜
    (1)第2波、第3波、第4波、第5波・・

    第1波が到来し、水が引いてから第2波までの間、だいぶ間がありました。私たちの避難していた生涯教育センターの周りも道路が顔を出すようになりました。私は町役場の職員とともに、下の階に降りて、外の様子を確認がてら、まだ使えるいすを機械室に運び込む作業をしていました。同センターは、下の階に降りるにしたがって、明らかに他の建物の柱と思われる廃材や屋根の一部などが大量に流れ込んできており、2階から1階に降りる外の階段は、階段ごと流されているなど、まさに惨憺たる状況でした。館内を捜索しているうちに職員の一人が足の裏を釘で踏み抜いてしまうなどのアクシデントもありました。事務所の机に財布などを取りにいった職員も、机ごと跡形もなく流されてしまった様子に呆然としていました。

    同センターに取り残された方の中には、この合間を利用してより高台に避難しようと試みた方もいたようでした。しかし、まもなく第2波が海から押し寄せ、多くの方は同センターに再び避難しました。ただ一人、高台の避難所に強行して向かった男性の方だけは、そのまま第2波に流されてしまったようでした。


    津波被害から一夜明けた女川町の状況(前田弁護士撮影)

    第2波は2階程度の高さでとどまったようですが、その後、立て続けに第3波、第4波と押し寄せました。そして、その後押し寄せた第5波が驚異的でした。渦を巻いたまま水位が上昇し、全く引く気配がないまま4階まで押し寄せました。あわてて町役場の職員と協力して、子どもたちをボイラーの上にあげ、車いすごとおばあさんもボイラーの上に上げました。幸い水位の上昇は4階天井付近で止まりましたが、水位の上昇をしっかり観察できている分、第1波より恐怖感は強かったです。子どもとおばあさんは日没までボイラーの上に待機することになりました。



    (2)日没後の様子

    第5波の後まもなく日没となりました。夜明けまでは外に出ることは極めて危険であることから、その時点で、その場にいた全員が夜明けまで待つことを決めました。その後、機械室の温度が急速に下がり、離れて待機しているのがつらい状況になりました。そのため、機械室中央に集まり、日中に下の階から集めたいすを車座に並べ、みんなの体温で暖を取る状況になりました。機械室の中は重油の臭いで充ち満ちていて、とても火を付けて暖をとれる状況ではありませんでした。町役場の職員がLEDスタンドを3つ携帯していたため、1つを常備灯にして、夜が明けるまで機械室で過ごすことにしました。そこで初めて人数確認がなされ、同センター内に取り残された避難者は28名ということが分かりました。

    職員の方が、機械室の中で日没前に発見したロール上に巻かれていた雨漏り処置用のグラスファイバーのシート(壁紙みたいな素材にスポンジが貼ってあるもの)を、避難した方が偶然もっていたはさみで切り分け、避難した方に配っていました。それは、機械室に貯蔵されていたものであるため、重油でかなりベトベトしていましたが、皆一様に寒さに耐えきれず、毛布のように使い、体温を保っていました。その後、各々隣の人とたわいもない会話をしたり、各々の身の上話をしたりして、夜明けを待ちました。

    トイレに行きたくなったときは、他の人を募り、5〜6人で4階のトイレにライトを1つ持っていき、順番に用を足しました。かろうじて男子トイレのみ使用することができたのですが、くるぶしまで水につからないとトイレに入れない状況でした。



    (3)午前0時を過ぎて・・・

    日没後、しばらくはそのようにして過ごしていたのですが、午前0時を回った段階で一段と時間の進みが遅く感じられるようになりました。互いに会話もなくなり、1時間経過したと思って腕時計を見ると10分しか経っていないということがしばしばありました。午前2時からは一段と気温が下がり、まるで雪山で遭難したときのように、寝てしまうとそのまま凍死してしまうかのように感じ、皆で眠らないように必死に会話をしていました。また、手足の感覚がなくなってきていたため、隣の人と手を握り、足を寄せ、なるべく感覚を失わないようにしていました。3歳と5歳の子どもは日没後まもなくおとなしく寝ていました。女性の方から体温が低下していたため、順番に子どもを抱っこして、体温が下がりすぎないようにしていました。静かに寝ている子どもの寝顔には誰もが癒され、体温の暖かみの大切さを実感しました。

    避難した中に網地島で生活している漁師の方がいました。この季節においしい魚や地元ならではの調理法などを面白おかしく皆に話してくれました。女川でおいしかったお寿司屋さんの話にもなったのですが、私が「女川でおいしいお寿司屋さんはどこですか?」と聞いたところ、漁師の方は絶妙なタイミングで「津波で流されちまったよ」と答え、みんなの笑いを誘い、一瞬場の雰囲気が和らぎました。

    弁護士は避難者の中で私一人だったこともあり、避難している方から免許証などの身分証明書が財布ごと流されてしまったがどうしたらいいかという相談や、建物だけ流され、住宅ローンと土地だけ残ってしまったという相談を受けました。明確な回答はなかなか出来なかったですが、いくつかの方法を教えると、相談した方はいくらか安心したようでした。
    時折、外の様子を窺いにベランダに出ると、女川町立病院と遠く沖に見える女川原発、その周りを漂う船(後に沖に逃げた漁船と判明)の光以外は一切光がありませんでした。昼間降っていた雪はいつの間にかなくなり、見たこともないようなきれいな星空が、夜空一杯に広がっていました。このときばかりは寒さを忘れ、星空に見入っていました。夜が更けてくるにつれ、天の川が姿を現し、今までで一番濃い流れを見せてくれました。

    そんな中でも相変わらず大きな余震とゴォという津波の迫る音とザァと津波の引く音は夜通し続き、常に気を抜けませんでした。

    そのようにして、寒さに凍え、余震と津波に怯えながらも、夜明けになれば生き残れると一縷の望みをもって、全員で夜明けを待ちました。


  5. ようやく外へ
    (1)待望の夜明け

    午前3時ころから夜明けへの長いカウントダウンが始まり、一日千秋どころか一刻千秋の思いで、夜明けを待っていました。このころになるとさすがに会話もなくなり、心身ともに限界が訪れ、寝てはいけないと分かっていてもいつの間にか意識を失い、気付いたときには体が冷たくなっているということが時折ありました。

    そして、午前5時ころ空がもよおしました。「空がもよおす」とは、漁師たちの間の言葉で、夜明けという意味だそうです。日の光が外から差し込んだときは思わず小さな歓声が上がりました。まさに明けない夜はないという言葉のとおり、夜が明けました。



    (2)脱出

    夜が明けた後の町の様子は、震災前とは一変していました。きれいだった女川駅前はホームとトイレを残して何もなくなり、駅前の温泉「ゆぽっぽ」は、風呂の礎石だけを残し、無惨な様子でした。変わり果てた町の道路を相変わらず津波が右往左往し、夜明けの喜び半分、変わり果てた町の姿を見て呆然とする気持ち半分の複雑なものでした。

    ともあれ、夜明けから1時間以上経った午前6時20分過ぎ、津波が生涯教育センターの前の道に来ないことを確認して、全員で同センターを後にしました。車いすのおばあさんについては、救援に来た男性2名と避難していた職員が協力して神輿のように担ぎ、瓦礫で埋まる同センターの階段を下り、脱出しました。そして、背後から津波が襲う危険に十分注意しながら、より安全と思われる、女川町の災害対策本部が設置されていた総合運動場体育館に向かいました。おばあさんについてはかなり衰弱していたため、すぐに町立病院に運ばれ、一命を取り留めました。

    津波が迫り来る危険な状況で、子ども2人と車いすの老人を誰も見捨てることなく、28人が協力して生き残ったことは、本当に誇りに思いました。

    その後、女川町でもう一晩明かした後、3月13日にようやく石巻市に移動することができ、石巻中学校にて、無事に妻との再会を果たすことができました。その後、石巻市内の先輩弁護士のご自宅に泊めていただき、ようやく自宅に帰宅することができたのは、震災発生から4日後である3月15日のことでした。


  6. 被災して感じたこと(愛知県弁護士会の皆様へのメッセージ)

    今回石巻に事務所を開設してから半年で、しかも私自身は命を危険にさらされ最前線で被災したことで、本当にいろいろ考えました。また、車も流され、食料もなく、多くの方に助けられて自宅に帰ってくる中で、いかに自分一人の力だけでは無力で、多くの人に生かされているかを本当に実感しました。そして、自分自身は力がない中で、自分の出来る目の前のことをやっていくしかないこともよく分かりました。また逆に、一つ一つ着実にやっていけば道は自ずと開けていくことも実感できました。そして、開けた道は、周りに支えられっぱなしでは歩いていけず、自ら決断して自らの足で歩んで初めて前に進めることも強く感じました。

    自宅に帰宅するまでも本当に多くの方の力をお借りしました。現在も石巻・女川をはじめ、各地の法律相談の企画から実施まで、本当に多くの弁護士の皆様のおかげで迅速に実現することが出来ています。愛知県弁護士会からも、10名の会員の皆様に当地までお越しいただき、4月29日には女川町にて、4月30日には石巻市にて、避難所での無料法律相談をご担当いただき、大変感謝しております。

    私は、あのような被災を経て生き残った以上、ぜひとも、法律家として復興に深く携わっていきたいと思っています。たとえ一人では難しくても、どれだけ多くの時間がかかっても、一人一人が自分の出来ることを着実に積み重ねれば、必ず復興できると強く信じています。これからも皆様のお力をお借りすることが度々あるとは思いますが、何卒宜しくお願いします。


  7. 津波被害を受けた女川町立生涯学習センターに後日訪れた前田弁護士