被災地派遣弁護士の活動報告
災害復興支援派遣弁護士登録会員
堀 龍 之
- 派遣弁護士10名の決定
被災地弁護士会の応援要請に基づき、日弁連は法テラスの協力の下にゴールデンウィーク前半にあたる4月29日から5月1日までの3日間、宮城県に全国の会員100名を派遣して約100か所の避難所で無料相談を実施することとなった。当会は日弁連からの要請に応え、10名を派遣することとして会員に参加要請をした。
すぐに多数の会員から参加希望をいただいたが、現地では交通網や宿泊施設が破壊され、相当の混乱も予想されたことから、今回は当会の役員や東日本大震災対策本部員を中心として現地との関係の深い方など10名を派遣メンバーとした。その顔ぶれは、萱垣建副会長、堀龍之、藤田哲、澤健二、魚住直人、小野万里子、森弘典、青葉憲一、燒リ美咲、上松健太郎の各会員であった。メンバーに入っていただけなかった方々には、次回以降の派遣にご協力いただけるようお願いしたい。
- 相談担当場所の割り振り
当会の派遣弁護士は、次の避難所での相談が割り当てられた。
4月29日(金・昭和の日) 女川町の6か所 4月30日(土) 石巻市の4か所 5月1日(日) 仙台、名取、岩沼市の3か所
各避難所では、10時ころから15時ころまで相談を行うこととされ、宿泊場所や交通手段、食事などは自前で調達せよとのことであった。
- 宿泊場所などの確保
4月29日の相談場所女川町と、30日の相談場所石巻市はいずれも市街地が壊滅的な被害を受けており、周辺の交通渋滞もひどいとのことであったため、確実にそれぞれの相談場所にたどり着けるところに宿泊場所を確保する必要があった。萱垣副会長の素速い手配により、大震災の被害が比較的小さかった松島町に28日から10名2泊分の宿を確保することができた。湯は出ないが、食事も提供されるとのことであった。30日は、仙台駅近辺のビジネスホテルが確保でき、ここも湯は出ないが近くの風呂が利用できるとのことであった。交通手段としてレンタカー2台をかろうじて確保することができたが、いずれも北海道ナンバーの車であった。保有車輌の多くが流されたりしたため、他の地域から寄せ集めたとのことであった。
- 現地集合
4月28日中に松島の宿舎へ集まるには、前日に運行が再開された中部空港−仙台空港便を利用するか、仙台まで運行再開されていた東北新幹線を利用することになる。私は他の4名と一緒に飛行機で仙台へ向かった。再開直後の仙台便は8割程度の乗客であった。
仙台空港に近づくと海岸から数キロ内陸部までは大津波によって家や車などが押し流されて瓦礫が散乱していた。仙台空港は離発着こそできる状態になっていたが、一歩空港ビルの外に出ると、大津波に流された軽飛行機や自動車が周辺に放置されたままになっており、近隣の建物も破壊されたままの状態であった。空港周辺道路の信号機も流されるか消灯したままで、警察官の手信号による交通整理が行われていた。仙台駅までの空港バス内は、壊滅状態の市街地を目の当たりにして静まりかえっていた。
仙台駅前でレンタカーを借り、1時間ほどかけて松島町に向かった。松島町は点在する島々が大津波が市街地に到達するのを防いでくれたのか、水位上昇による浸水の被害は認められるものの、家や車が流された様子は見られなかった。
海岸沿いの高台にある古い宿舎は、災害支援の方々で満杯状態であった。28日22時過ぎには新幹線と在来線を乗り継いで到着した方々も全員揃い、翌日からの相談に備えて打合せをし早めに就寝した。 - 4月29日女川町で相談開始
宿泊場所から女川町までは石巻を経て30キロほど。平常時なら40〜50分程度の道のりであるが、大震災後のひどい渋滞を考慮して8時過ぎにレンタカー2台で出発した。宿を出てほどなく、比較的大きな川の堤防道路に出た。川の中にはあちこちに車がひっくり返っている。大津波が運んできたものと思われた。やがて石巻市内に入ると、渋滞する国道の両側には押しつぶされた車や破壊された家屋などの残骸がうずたかく積まれ、まるで残骸の壁の中を走っているようであった。国道の両側ともほとんどの家屋は押し流されるか潰れるかしており、腐敗臭がひどい。
女川町に入ると、海と山に挟まれた狭い市街地は、見渡す限り押しつぶされた車や押し流された家の残骸で覆われている。コンクリートのビルが横倒しになったり、流されずに残った3〜4階建てのビルの上には大きな船や車が乗ったままになっているのも見える。
高台にある町立総合体育館は津波被害を受けておらず、町内最大の避難所となっていた。人口1万人ほどの女川町とは思えない立派な体育館や陸上競技場などが整備されており、災害派遣の自衛隊が駐屯していた。10名はひとまず相談場所の一つである高台の旅館に集合し、その後町内6か所の避難所に分かれて被災者の法律相談を行い、18時ころ松島町の宿に戻った。
- 4月30日石巻市で相談実施
8時過ぎに宿を出て石巻市に向かった。石巻は昨日も通過したが、市内各所の避難所を回るために市街地を走ると、被害の甚大なことに驚かされる。石巻市は人口が約16万人で市街地も女川町より格段に広い。その広い市街地が一面瓦礫の山と化している。押し流された家や車も多いが、半壊状態の家の庭や玄関に押しつぶされた車や流されてきた家が突っ込んでいる状態もあちこちに見られる。
広い市街地に見渡す限り広がる瓦礫の山を見ると、1年程度では撤去することすら困難に思える。市街地の地盤沈下もひどいようで、広い範囲に海水が滞留し、腐敗臭がひどい。
石巻市での相談が終了した後、仙台駅から徒歩5分程度のビジネスホテルに移動して宿泊した。仙台市の中心部でも数日前までガスが供給されておらず、外観上は地震の被害はないように見えても、仙台市全域にわたって相当の被害を受けたとのことであった。 - 5月1日仙台、名取、岩沼市で相談実施
5月1日は最後の相談日。仙台市、名取市、岩沼市の避難所に分かれて相談を行った。
私は岩沼市を担当したが、避難所への経路である名取市の国道沿いには大きなボウリング場があり、遺体安置所となっていた。岩沼市も名取市も、仙台空港の一部を市域に含み、太平洋に面している。大津波は海岸から数キロ内陸部に位置する仙台東部道路がせき止めた形となり、この道路の海側は壊滅状態であるのに対し、山側は津波による被害を受けていないようであった。そのため、避難所は東部道路より山側に位置しており、海側からの避難者が多くを占めていた。
岩沼市の避難所は市民会館の中にあり、ロビーや廊下などにシートを敷いて寝泊まりできるようになっていた。被災地外の親戚や知人宅に移った人もかなりいて、5月1日時点ではピーク時の半分程度の被災者が残っておられた。ここには大阪市の職員が自治体による支援のために滞在していた。
私たちは、玄関ロビーにパネルで仕切ったコーナーを作り、机を並べて法律相談を行った。
- 派遣相談を体験して
大震災の被害が甚大であることは、仙台に到着してすぐに実感したが、実際に被災地を回って市街地が瓦礫の山と化している姿を目の当たりにすると言葉を失う。
日弁連が主催した今回の法律相談の件数は956件とのことである。予想より少ないと感じるが、もう少し時間が経過して被災者の方々が具体的な生活再建課題に直面するようになったり、公的な支援措置が具体化してきたときには、新たな相談需要が生まれるものと思われる。被災者の方々の相談は、日常的な法律相談のレベルをさまざまな面で超えている。被災者支援のための諸立法や政策に精通していなければ的確なアドバイスはできないし、今後は原子力損害賠償制度を理解しておく必要がある。大きな地盤変動が生じた市街地においては、土地所有権の範囲を旧来の法理論で律することは困難であり、区画整理等の権利変換手法による解決を図るほかないかもしれない。被災者からの相談に応えるためには、広範な知識を身につけるとともに、最新の立法や法改正の動向にも気を配る必要がある。
また、深刻な原発事故により、エネルギー政策自体の見直しが必至であると思われる。多くの公害問題に最前線でかかわってきた弁護士・弁護士会として、具体的な提言ができるように研究を進めることも必要になる気がする。
いずれにしても、被災地を訪問して被害の実態に触れることは、さまざまな意味でエネルギーを生みだす。今後も被災地への派遣支援は継続されると思われるので、多くの会員が機会をとらえて参加されることを期待している。