会報「SOPHIA」 平成22年1月号より
刑事弁護人日記(68)

お母さんの手はどんなところにも届く
会員 川 口 洋 平

  昨年、ある殺人未遂事件を担当する機会がありました。
  結論からいえば、起訴の段階で傷害罪に落ち、しかも略式請求を受けたのみで釈放という、非常に幸運な結果に終わった事件です。
 しかしそれだけでなく、私自身の心にも、大きな思い出を残してくれた事件ですので、この場をお借りして、この事件のことをお話しさせていただきたいと思います。

  事件は、20歳の女性(仮に「Aさん」とお呼びします。)が、口論の末、同居する交際相手を後ろから包丁で刺したという事件です。
 Aさんは、家出してネットカフェなどを泊まり歩く中で、彼に出会い、同棲を始めました。
 2人はいずれも、いわゆる風俗関係の仕事に就いていました。Aさんは、稼いだお金の多くを、彼が勤めるホストクラブにつぎ込んでおり、2人の間には、かなりの額の貸借関係があったようです。
 今回の事件も、お金をめぐるトラブルから起こったものでした。彼が、Aさんの財布からお金を取って、家を出て行ってしまったことが直接の発端です。
 絶望した彼女が、彼を追いかけ、自室前の廊下で後ろから包丁で彼を刺してしまった、そういう事件でした。

  裁判員裁判対象事件であったことから、複数選任が認められ、私は2人目の弁護人として活動することになりました。
 本人が殺意を否認していましたので、先任の寺林会員と2人で、毎日、土日も交代で接見に行き、自白調書を決して取られないようにすることを、まず目標としました。

  手探りの中で、Aさんとの接見を重ねました。
彼女は、これまでに、何回もリストカットを繰り返していました。彼を追いかけるときに包丁を手に持っていたのも、リストカットをして彼の気をひこうと、直前まで包丁を手に持っていたことが原因です。
 家族を離れ、見せかけの愛情と他人に依存する不安定な生活の中で、自分を傷つけていたように思います。
 彼女が立ち直るためには、今の不安定な生活を離れ、家族と一緒に、治療に専念することが望ましいと思えました。
 実は、捜査の途中で、検察官からも、この事件について公判は馴染まず、できれば治療を受けさせたいので、弁護人の方で、彼女を診療することのできる病院をどこか探せないかという打診もあったのです。
 慌てて寺林会員にも連絡し、釈放を目指す、環境調整の弁護活動に切り替えました。  幸いにも、寺林会員が病院に伝手をもっていましたので、留置人診療の手はずを速やかに取ることができました。
 後は、家族の病院への付添の了解を本人から取るだけです。

  しかし、彼女は頑として、母親へ連絡を取ることを拒否していたのです。
 その理由には、色々なものがあったと思います。思春期ならではの反発、彼を認めない母親への反発。一方で、迷惑をかけたくないという気持ちもあったのかもしれません。
 あるいは、我々が計り知れない、何か葛藤があったのかもしれません。家庭内での両親の不和等もありました。彼女自身が家族に対して抱えていた気持ちには、複雑なものがあったのだと思います。
  満期が近づくなかで、私達も、最後まで悩みました。

  接見では色々な話をしました。
 たくさん笑い話もしました。悲しい話もしました。お互いに涙を流して話をしたこともあります。自分をさらけ出して、1人の人として彼女と向き合ってきたつもりです。
 ぎりぎりになって、彼女は、母親に連絡をとることを承知してくれました。
 急いでお母さんに連絡を取ったところ、他県にお住まいだったにもかかわらず、すぐに名古屋まで駆けつけてくれました。
 翌々日、病院近くの駅で落ち合い、私が病院まで付き添って、診察に立ち会いました。
 幸いにも、診察を担当した先生に、彼女の地元の病院への紹介状を書いてもらうことができました。
 後は、これを検察官に説明して、処分結果を待つのみです。

  診察が終わって、彼女の手には手錠がかけられました。彼女は寂しそうに微笑んで、母親に「またね。」と言いました。
 すると、お母さんは、警察官の手をそっとすりぬけて、彼女の手をぎゅっと握ったのです。
そのときです。彼女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちました。あれだけ、母親を忌避して、連絡を取ることを嫌がっていた彼女がです。
私は、そのとき、この親子の間には本当は信頼があったのだということ、愛情があったのだということ、彼女も本当は、お母さんに来て欲しかったのだということを知りました。
 お母さんの手はどんなところにも届く。お母さんの手は、温かい手紙も届けてくれました。  幼い弟と妹が描いた、お世辞にも似てるとはいえない、けれど温かく愛らしいAさんの似顔絵と一緒に、「ポンチョ(※彼女が飼っていた犬の名前です。)と一緒に帰ってきてね!」と、無邪気なメッセージが届きました。  お母さんは、「この子は、『もうすぐAちゃんが帰ってくるから、Aちゃんパワーで頑張る。』と言って、日頃できない早起きをして描いたんですよ。」と私に教えてくれました。
 私は思わず涙ぐんでしまいました。周りには泣きすぎだと笑われてしまいましたが。
 どんな人も、ある日突然、犯罪者として生まれ落ちたわけではない。
 父と母から生まれ、これまでに積み重ねてきた人生がある。家族と過ごした日々がある。
 不幸にして、犯罪という陥穽に陥ったのかもしれないけれども、この手がとどく限り、その人はきっと立ち直れる。また普通の社会人として歩むことができる。

  幸い、地元の病院での治療が受けられることが決まったことから、公判請求はなく、彼女は釈放されることになりました。
 当日、直後に別の案件を控えていたため、彼女の釈放に立ち会えるか心配でしたが、なんとか間に合うことができました。検察庁の建物を元気に出て行く彼女達を見送ることができました。
 後日、彼女が、紹介された病院に無事通院を始めたことを知りました。
 無論、彼女が立ち直ることは、口で言うほど簡単なことではないと思っています。乗り越えなければならない問題は多いと思います。
 ですが、時に葛藤や困難があるとしても、きっとそれを乗り越えて、幸せになってくれる。
 私はそう信じています。