会報「SOPHIA」 平成21年1月号より

刑事弁護人日記(64)
示談の功罪


会員 久保 晴男


1 はじめに
 被疑事実は詐欺既遂で被害金額は800万円。800万円は当然のごとく既に手元にはない。被疑者は、被疑者の両親が示談のお金をなんとか準備してくれるかもしれないこと、被害者が実家の隣人であったこと、被害者の飲酒運転が原因で被疑者の車に当て逃げしたことが詐欺の発端となっていることなどを理由に、示談の上起訴猶予に持ち込めると安易に期待していた。

2 示談提案から
 検察官を通じて被害者に分割での被害弁償及び示談の提案を行いたい旨伝えたが、当初は電話番号すら教えたくないとの回答であった。勾留延長が濃厚であり、この時点で満期までは2週間ほど。僕は、被疑者に対し、示談は諦めて、粛々と裁判を受けたらどうかということを話した。被疑者は、大阪のヤクザに多額の借金をしている上、雇い主もヤクザのような人間で仕事に穴を開けたことをかなり立腹しており、このまま自分が塀の内側にいたら自分は安全かも知れないが内縁の妻の身が危険であると泣きついてきた。僕は、そんなことを言われても手前の身から出た錆だし、相手あっての示談なのだから難しいものは難しいと言った。すると、被疑者は、接見室のガラス越しに僕の目を見て、「そんな簡単に諦めるのかよ!あんたら弁護士なんてそんな暢気な商売かよ!ヤクザの方が親身になってくれるだけマシだ!おまえらの存在こそ無駄だ!(ほぼ言われたままである)」と半狂乱になった(こいつ学園ドラマの見過ぎじゃないのかとかなり突っ込みたかったが・・・)。当時、弁護士登録直後で示談の難しさも考えてなかったため、そこまで馬鹿にされて黙っていられるかと思い、絶対に示談してやる、ギリギリまでねばってやると約束して接見室を後にした。

3 あらためて示談に向けて
 両親に相談し、父親を連帯保証人に付けること、公正証書を作成し執行受諾文言を入れること、毎月の返済額を15万円とすることを両親と被疑者に承諾させ、被害者の自宅はわかっていたため直接自宅に赴いて被害者と面談した。日曜日を除いて毎夜被害者宅を訪れたが、会ってくれたのは3回のみで、その他は被害者の母親が対応してくれただけであった。被害者からは、結局色よい返事をもらえないまま、満期前日を迎えてしまった。被疑者に対し、おそらくこのまま示談はできないだろうと伝え、被疑者もうなだれていた。ところが、満期前日の夕方、被害者から初めて僕のところに電話が入った。聞けば、母親からの説得もあり、分割払いで嘆願まで付けた示談に応じてくれるとのことであった。僕は被疑者の父親を説得し、頭金として100万円を用意させ、公正証書を作成することを条件として示談書を交わし、検察庁へ示談書を提出することができた。被疑者に示談成功を伝えた時の被疑者の涙を流す姿は今もはっきりと思い出される。おそらく、被害者からの電話が後1時間遅ければ、翌日の朝一番で起訴状が裁判所に提出されていたのではないかと推測されるほど、かなりぎりぎりの示談であった。この時ばかりは、本当に最後の最後まで諦めてはいけない、諦めてしまうと終わりだということを痛感した。被疑者の今後の返済を確実にするため、被疑者の父親の頼みもあって、被疑者の債務整理も受任し、被疑者の経済的更生も実現しようということになっていた。引直計算をしたところ、過払いにまではなっていないが、元の債務の10分の1以下に総債務額は減少していた。この結果を受けて、僕は、債務整理も順調に進み、みんながハッピーになれるだろうと思っていた。

4 素早い裏切り
 ここで話が終われば、美談で済むのだが、このままでは終わらないというのも弁護士稼業の無情か。
 第1回目の分割払約束日の翌日、担当検察官から電話が入り、支払いがないということで被害者から連絡が入っているとのことであった。頭が真っ白になった。大阪に戻って仕事に励んでいるはずの被疑者に連絡をしたが、つながらなくなっていた。僕は、直ちに被疑者の父親にも連絡を取り、なんとか支払いを代わりに続けていくようにとの連絡をするとともに、被害者に対し今後も弁償を支払わせるよう最大限の努力をすると伝えた。
 ところが、被疑者の母親が脳梗塞で倒れ、父親も病院に付きっきりとなってしまった。母親の病気の原因は、心労が重なったことにあると考えられた。どれだけの人間に迷惑をかけ、どれだけ身勝手な振舞いをしたら気が済むのかと、被疑者に対する怒りで身体の震えがしばらく止まらなかった。このころ、被疑者のことを考え、持って行きようのない怒りで胃が痛く眠れなくなったことも何度かあった。被疑者の流した涙はなんだったのか。
 被疑者の実家は担保もついていない土地建物であったことと、被疑者の父親の退職金が見込めたことから最終的には被害の回復は可能であろうと考えてはいたが、実際回収をすることの苦労や裏切られた被害者の思いを考えると、被害者に対しては本当に申し訳ないことをしてしまったと反省するばかりである。
 僕は、被疑者の父親に支払いを継続するよう注意喚起を行っていたが、そのうちに被疑者の父親も看病や妻の入院費用等で日銭を失ってしまったらしく、ないものは支払えないと開き直ったような態度を取るようになっていった。被害者の被害回復はおそらく150万円程度のみしか実現していなかったものと思われる。その後、僕は、支払いがどうなったのか、強制執行が行われたのかということについては確認を取っていない。
 示談成立から半年後ころ、被疑者の父親と久々に電話で話したところ、被疑者が犯罪を起こし、再度拘束されているということを聞いた。僕は、かかる結末も予想はしていたが、まさかこんなに早くくるとは考えておらず、やはりそれなりにショックはショックであった。結局、被疑者の債務整理も同じ頃に辞任した。
 その後、被害者のことを考えると、すぐに裏切られる可能性のある分割払いの示談は控えるべきだと思わざるを得ず、その思いは、刑事弁護への弁護人の無力感を誘発するものでもあった。この事件は、僕の刑事事件に対するスタンスを考える上で、非常に重要なものであり、示談の怖さと諦めなければなんとかなるということの両方を実感できたもので、大変貴重なものとなった。

5 唯一の成果?
 もっとも、示談成立から1年後ころに、被害者の方から紹介を受けたという多重債務者が僕に相談したいと訪れてきた。少なくとも被害者の方は僕の弁護士活動をそれなりに評価してくれているのかと思い、当時胸が熱くなったことを思い出す。被害回復の状況はその後聞けていない。いずれ覚悟を決めてどうなったのかについて被害者に確認を取りたいと思っているのだが、なかなか勇気が出ないでいる。


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