1 悪 夢
菊野は、恐る恐る石川から届いたメールの添付ファイルをクリックし、二回試験の不合格者掲示の写真を開いた。
思わず不安がよぎり目を閉じてしまった。菊野の受験番号である63X番がないことを祈りつつ、そっと目を開く。
「うそだろう…。」
菊野の番号がそこにあった。
今までの努力の分だけ身体から力が抜けていくのを感じる。菊野はその場に崩れ落ちた。
今後どうしたら良いか全く考えられない。 「まさか…。これは夢だ。夢であってくれ…。」
はっと目が覚めた。
菊野はこの夢を未だに時々見る。
本当に夢で良かったと安堵しながら、嫌な汗を熱いシャワーで流し、身支度を整え、最後に弁護士バッジをつけた。
弁護士バッジ(弁護士記章)は、表面を十六弁のひまわりの花とし、その中心部に秤一台を配している。ひまわりは自由と正義を、秤は公正と平等を意味しており、弁護士は自由と正義、公正と平等を追い求めることを表している。
弁護士バッジの色は最初は金色だが、年月等によりそのメッキが剥げると銀色になってくる。本当かどうか知らないが、バッジの色が金色だと、あまりにも新人ぽくて恥ずかしいということで、わざわざ擦って銀色にする弁護士もいると聞く。
菊野の弁護士バッジは、2年の月日を経て、少し鈍い金色に変わっていた。
2 弁護士になって
家を出ると、雪が降り始めていた。
そういえば昨日は一段と冷え込んだので、雪が降るのも頷ける。菊野は寒さに軽く身震いし、コートの襟を立てた。
「未だに二回試験の夢を見るなんて、やっぱり弁護士としてまだまだ自信がないからかなぁ。」
今朝の夢のせいだろうか。事務所へ向かう電車の中で、菊野は弁護士になってからのことを思い出していた。
夢とは異なり、二回試験はなんとか合格できた菊野ではあったが、弁護士としてスタートを切ってからも、色々と大変だった。
弁護士になってから初めて就職先の事務所に入ったときに、入口に「弁護士菊野大輔」と名前が掲げられているのを見て、自分もようやく弁護士になったんだと、これまでの道を振り返り、胸にこみ上げるものがあった。
同時にそれ以上の不安にも襲われた。
ロースクールを出て、司法修習を終えて弁護士になっても、肝心の実務についての知識がほとんどない。
しかし、相談者から見れば、自分も一人前の弁護士なのだ。
だから、責任が重い。
菊野は気持ちを新たに、弁護士として恥ずかしくないよう頑張ろうと決意を固めた。
さて、菊野の事務所には、ボス弁(事務所の経営者である弁護士)が1名、姉弁(女性先輩弁護士)が1名おり、菊野が事件の処理などで困ったときには、ボス弁や姉弁に色々と相談に乗ってもらった。
菊野が弁護士になって最初のころ、一番不安だったのは、区役所や法律相談センターなど、事務所の外で行う法律相談であった。
事務所の事件の処理であれば、分からないことは調べればよいし、新規の法律相談であっても、事前にどのような相談か聞いておけば、最低限の予習はできる。
しかし、事務所の外での法律相談は、相談が始まるまで何を聞かれるか分からない。菊野は、最初、これが不安でたまらなかった。
特に困るのは、手続的なことなど、弁護士を何年かやっていれば簡単に答えられることが、うまく答えられないときだ。法律相談に来た人に申し訳ないと思う。菊野は、そういうとき、相談者に連絡先を教えてもらい、事務所に戻ってから調べて、後で回答することもあった。
しかし、2年経った今では、法律相談に行っても、そういう不安はあまりない。菊野も少しは成長したということだろう。
弁護士の仕事は責任が重いため、ずいぶんとプレッシャーを感じたこともあった。事件の相手方はともかく、依頼者から苦情を言われたときには、とにかく落ち込んだ。せっかく苦労して弁護士になったのに、もう辞めてしまいたいと思ったこともある。
しかし、そういうとき、ボス弁や姉弁、事務局に支えてもらい、ここまでやってこれたのだとつくづく思う。
弁護士を目指して勉強を続けていたときには想像できなかったが、なってみれば、弁護士は結構辛い仕事だなと思う。
ただ、その分、やりがいは大きい。特に事件が解決したときに、依頼者から「ありがとう」「先生のお陰です」とお礼を言われたときは、何よりも嬉しい。また頑張ろうという気持ちが沸き上がる。菊野が弁護士になれて本当に良かったと思う瞬間だ。
3 会務活動・派閥
途中の駅で多くの人が乗ってきた。乗客の肩は雪でうっすらと白い。
今日は積もりそうだなぁ。そう思いながら、菊野は再び回想に戻った。
菊野は弁護士の仕事以外に、弁護士会の委員会活動にも参加している。
修習時代に司法修習委員の先輩弁護士にお世話になり、今の事務所への就職も、委員のお陰でできたといっても過言ではない。菊野は、自分も後輩の役に立てればと思い、司法修習委員会に入った。自分が就職活動をした2年前より、さらに就職活動は大変なようである。
菊野は派閥(会派)にも入っている。
派閥は弁護士会で選挙がある場合に、その選出母体になるが、選挙がないときには、親睦を深めるお酒の席も多い。
菊野はボス弁が入っている派閥に入ったが、たまたまロースクール同期の入谷も同じ派閥であった。
入谷は菊野を派閥の若手先輩弁護士に紹介してくれた。菊野も元々お酒の席が好きで、A社時代に培われた芸などで、場を盛り上げるのが比較的得意であったこともあり、先輩弁護士に割と早く名前を覚えてもらえたようだ。
菊野が弁護士登録をしたとき、弁護士会に年間100人程の新人弁護士が登録したため、先輩弁護士が新人弁護士の顔と名前を覚えるのは、なかなか大変らしい。
そう思いながら、菊野は改めて入谷に感謝した。
4 事務所
そうこう思いを馳せているうちに、菊野は事務所に到着した。
まず挨拶をしてから自分の席につく。
今日が仕事納めである。
今日は早めに仕事を切り上げ、事務所の打ち上げをやって、冬休みに入る。
それまでに年内に片づられるものを終わらせたい。
パソコンを立ち上げ、メールを確認し、郵便物の確認をする。
午前中の打ち合わせを済ませ、後は大掃除だ。
菊野の机の上は散らかっており、日頃、事務局から綺麗にして欲しいと言われている。
分かってはいるんだけどと反省しながら、机の上を綺麗にした。綺麗にしてみると、いかにも仕事がやりやすそうだ。
「いつまでこの状態が保てるかなぁ。」
菊野は苦笑いしつつ、時間になったので、机を後にし、事務所全員で打ち上げの席に向かった。
朝から降っていた雪はこの頃には止んでおり、結局積もらずにすんだ。
5 春の訪れ
菊野は、ほろ酔い加減で事務所の打ち上げから帰宅し、家の電気をつけた。
いつもより早い帰宅だったので、まだ眠るにはずいぶん早い。
年賀状も宛名まで印刷したけれど、メッセージはまだ書いていない。やはりどんなに忙しくても一言くらいは書きたいなと思い、菊野はペンをとった。
年賀状といえば、A社に勤めていたときは、気軽に出していたものだ。しかし、A社が倒産し、ロースクール時代や司法試験受験生時代に突入した後は、すっかり出せなくなった。友人から来る結婚や出産の幸せそうな年賀状を見る度に、去年と変わらず何の報告もできない自分が社会から取り残されていくような気持ちになり、気が重かったからである。
思えば長い道のりだった。
弁護士を目指したのは26歳だったのに、弁護士登録をしたのは32歳である。
そんな菊野も、今や34歳になった。
これまで色々な人との出会いがあった。
ロースクール同期の入谷には、今でも本当に世話になっている。修習同期の石川とは、時々東京出張があるときに、時間を見つけて一緒に飲んでいる。東京は名古屋より仕事が忙しいようで、石川は、自由な時間がなかなかないと嘆いていた。ともあれ、石川と会うと修習時代に戻れたような気持ちになり、やはり楽しい。
メッセージの参考にと、今年の年賀状をめくっていたら、元彼女からの年賀状が出てきて、一瞬、菊野の手が止まった。そういえば、元彼女からは、今年、子どもが生まれたという年賀状を受け取っていた。
しかし、今では心を動かすことなく、穏やかな気持ちで元彼女に祝福の言葉をかけることができる。
菊野は再びペンを取り、年賀状のメッセージ書きに戻った。
その年賀状には、入谷に紹介してもらった女性が、自分の隣でドレス姿でほほえんでいる。
それを見て、菊野は再び幸せをかみしめた。
そろそろ、妻も帰ってくるだろう。
弁護士の道を歩み始めた菊野に、ようやく春が訪れた。
(完)
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