会報「SOPHIA」 平成19年9月号より

刑事弁護人日記(48)
トラフィッキングの被害者を弁護して


   委員
稲 森 幸 一


 今までに最も印象に残っている事件のうちの一つについて述べたい。事案は、単なる不法入国である。通常なら被害弁償もなく、情状証人もおらず、被告人質問だけで終わる類の事件である。日本にビザなしで滞在している以上、通常は争いようがない。しかし、無罪を主張した事件であった。

 最初の接見で、貧しくて出稼ぎに来た、と、まだ20代の被告人は述べた。私も単純な入管法違反事案だと考えた。しかし、それだけで帰るのも何なので、世間話をしようと思い、日本の印象はどうかと尋ねた。しかし彼女は、遊びに出たことがないから、よく分からないと答えた。そんなに仕事が忙しかったのかと聞くと、毎日夜8時から朝8時まで働かされ、休みは月に2日しかないとのことであった。そう言われて初めて被告人が疲れ切っていることに気づいた。しかも、落ち着かない、何かにおびえているようでもあった。

 詳しく話を聞くと、遊びに出たことがないということの意味が分かった。働いている店から住居を提供されていたが、店の人間が一緒に住んで、彼女を含めた従業員を監視しており、店の行き帰りも店の車で移動しているとのことであった。休みに服を買いに外出するときも店の人間が付き添っていたとのこと。金銭的にも、毎晩働いていたにもかかわらず、月に5万円ほどしかもらえず、店で着る服であるにもかかわらず衣装代もそこから出させられているとのことであった。鞄の中身も携帯も常にチェックされているという。

 被告人の話を聞いていて、トラフィッキングという言葉が思い浮かんだ。まさに人身売買の被害者ではないのか。事務所に戻った後、早速言葉だけしか知らなかったトラフィッキングについて調べることにした。

 トラフィッキング、すなわち「人の不正取引」の防止については、2000年に「国連国際組織犯罪防止条約」「人身取引議定書」が締結されていること、日本でも2004年12月に「人身取引対策行動計画」が作られ、2005年6月の入管法改正で、退去強制事由から「人身取引等により他人の支配下に置かれている者」を除外し、同様の人間に対して上陸特別許可をすることができること、在留特別許可をすることができることもそれぞれ定められていることを知った。

 裁判では、これらの情報をまとめて裁判所に提出し、人身売買の被害者は法の保護の対象であって法で処罰することはできないと主張した。そして判決の日が決まり、仕事は終わったかなと思ったときに、被告人から会いに来て欲しいと連絡があった。被告人はすごくおびえており、理由を聞いてみたが、要を得ない。とにかく主張を撤回して欲しいと言われた。誰かに脅されている風であったが、結局聞き出せなかった。とにかく早く国に帰りたいと言う。間違いなく執行猶予になる事案であり、話し合った末、苦渋の選択であったが主張を取り下げることにした。私としては無罪判決を取りたいところであったが、もちろん自分の気持ちを被告人に押しつけるわけにもいかない。正直無罪にはならないだろうという気持ちもあった。ただ、一旦主張したものを結審後に取り下げることができるのかは分からなかったが、弁論再開して経緯を話したら、懲役1年6ヶ月執行猶予3年というありきたりの判決が出た。人身売買については全く判決で触れられなかった。この決断が正しかったのか今も分からない。






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