本会から一宮支部に登録換えをして約6年。本会のときは、国選は当番で被疑者扶助で受けた事件の流れで年に2件ほど受ける程度だったが、一宮支部に来てからは、年に20件前後を受けている。自分の事件のついでに裁判所一宮支部の1号法廷の入り口に張り出されている開廷一覧表を見ると、私が以前に弁護した事件の被告人の名前があることが少なくない。刑務所に行ったはずの被告人がいつの間にか出所したのはいいが、また再犯をおこして裁判にかけられているのを見るとガックリくる。そんな事例を紹介する。
1 ある賽銭ドロ
ガムテープで木の枝を組み合わせた自作の道具を使い、賽銭箱から賽銭を盗みだすことを繰り返している20代の被告人。中学校ではいじめられ、卒業後就職したが長続きせず、家でも養父とうまくいかずに飛び出してホームレスに。ただ、名古屋の高架下では、そこに本拠を置くホームレスに睨まれるので、怖くて近寄ることが出来ず、田舎の公園や畑で寝泊まりをして、賽銭を盗み、その数百円の金を食費にあてていた。弁論では、生活能力が低く働き口もない被告人は、何らかの行政上の福祉政策によって保護されるべきと主張し、被告人は法廷で再出発の決意を述べた。判決は懲役1年。しかし、福祉の援助を得られることもなく、2年ほどして、再度、刑事法廷で見かけることになった。
2 二度目の国選弁護
50代後半の被告人による常習累犯窃盗事件。住む場所がないので空き家に忍び込んで周囲に気づかれないようひっそりと寝起きし、個人の住宅や飲食店の倉庫に侵入して食べ物や酒などを盗むことを繰り返していた。被害弁償の必要もあるので、母や兄弟へ連絡しようとしたが、被告人が強く拒否。このため被害弁償も出来ず、被害者には謝罪の手紙を送り、反省文を書いただけで弁護を終え、判決は懲役2年8ヶ月だった。
その判決から3年を経過しないうちに、まわってきた国選弁護事件の被告人名で彼の名前があった。やったことは前回と全く同じ。仮釈放後は一時保護会でお世話になったものの、そこを飛び出してまた空き家で生活し、前回と同じ飲食店の倉庫から酒を盗んでいた。接見で、前回、本人が書いた反省文の内容を聞いたが、全く覚えていない。仕方がないので、以前の反省文を見せながら、なぜここに書いたことが実行できなかったかを考えてもらった。また、今度は兄弟に連絡(母親は受刑中に死亡)。兄弟は、今更連絡されても迷惑だと怒っていたが、弁護人が退去する際に弁償金として財布から1万円を出してくれた。そのお金で被害弁償をすませ、刑務所を出たら兄弟に挨拶に行くと約束させた。2回目の判決は懲役3年で現在受刑中。3回目が来ないことを祈るばかりである。
3 再犯の可能性は…
ほかに、覚せい剤で執行猶予の判決を受けて半年たたないうちに裁判所で名前を見た20代の被告人、窃盗事件で妻が涙ながらに指導監督を誓って執行猶予になったのに、1年もたたないうちに再度窃盗で裁判を受けていた70代の被告人もいた。
弁護人としては、当然ながら、担当した被告人には再び罪を犯してほしくない。これらは刑事弁護のいわば失敗例。弁論では、「再犯の可能性はない」ときっぱり主張したいのだが…。