会報「SOPHIA」 平成18年3月号より

「裁判所に出かける朝は」


上 野 陽 子

 私が初めて裁判所を訪れたのは十八歳の夏休みのことでした。女友達三人で、傍聴へ。

 三人とも初めてだったので、わけもわからず適当に入った法廷での裁判は、始まって三十秒足らずで終わりました。

 裁判官も検察官も書記官も、唖然としているギャル三人に尻目にさっさと退廷していきましたが、弁護士のかばん持ちと思おぼしきお兄さんは帰りしなに、ここは高裁であって、隣の法廷が地裁であることをにこやかに教えてくださいました(三人とも近眼で、バッジを確かめることができなかったのでお兄さんの身分がわからず、とりあえずかばん持ちということに)。

 そして行ってみた隣の法廷には、三人の目を思い切り奪った人物がいました。そこが法廷でなかったら、どう見てもホストにしか見えない検察官…(なのに書類は風呂敷包みにしているのはなぜ?)

 栄まで歩くことにした帰り道、私たちの話のネタは <彼氏にするならどっち? かばん持ちVSホスト検察官 >で持ちきりでした。「あれは髪のセットに朝、絶対二十分以上かけている」とか、色々と盛り上がった結果は、3対0でした。

 軽薄の極みと思われないようギャル三人の名誉のために書きますと、言いたい放題だったのは、いくらホストに見えても検察官はファン投票で給料が決まるわけではないことをわきまえているからです。三人の会話はおおむね能天気でありましたが、裁判員になった暁には、弁護人VS検察官のファン投票で被告人の人生を左右するわけにはいかないことくらいは、当時でさえわかった上でのこと。

 あれから四年近くが過ぎて、だんだんと裁判員制度が形になってくると、気がかりも生まれてきます。

 帰り道は、あんなふうにピーチクパーチク誰かと話しながらのんびり帰るなんてできないのだろうな。ほかの裁判員とメルアド交換をしながら、和気あいあいなんていかないだろう。ピリピリした警備員に、裁判所のどこか裏口からこっそり送り出されて、通りがかりの公務員でございますというような顔をして(お役所街に溶け込むように)、駅まで早足に歩かされるなんてことになるのでしょうか。

 帰路は疲れるものだとしても、やっとうちに帰ったところで、「いや、じつは検察官がさぁ…」と、家族と大笑いなんてできないのかもしれない。守秘義務の範囲が、法廷で見聞きしたすべてに及ぶのならと心配で、おちおち話せたものではない。人は悲しいことを他人に隠すときよりも、他愛無い笑い話を誰にも話せないときのほうが孤独になりやすいと思うのは、私だけでしょうか。

 あげく、疲れる裁判員の仕事がやっと終わったら、翌日からまた普段の仕事が待ったなしで待っている。一日くらいは休まないと、とても普段の自分の生活には帰りにくいと思うけれど。

 参ったなぁ…

 話は四年近く前のあの日に戻って、あの帰り道の私たちは、いつになく饒舌だったように思います。沈黙がいやだったのかもしれません。あの日目にした美人の被告人のことに、胸をふさがれそうになるのがいやだったのかもしれません。

 あんなに美人だったら、きれいに身支度して出掛けに玄関の鏡を見るだけで、十分毎日楽しいんじゃないの?何が楽しくなくて薬に手を出さなければならないわけ?と、当時彼氏いない歴十八年(現在記録更新中)の身としては、はなはだ疑問でした。

 でも、もしも彼女(被告人)の部屋(逮捕前に暮らしていた)には、鏡がなかったのなら?そんな考えも浮かびました。

 世の中には、同居人が叩き壊してしまうから危なくて鏡なんて買えない人もいるのだろうし、あるいは、物質的なそれそのものを離れたもっと抽象的な「鏡」が、壊れてしまう人もいるのだろう。

 そういうことと向き合うのは、実に大変だと思う。現に私たち三人は、人気投票で気を紛らわせました。

 でも、もしも裁判員になったら私たちは、そういう彼ら彼女ら(被告人たち)の「鏡の物語」に耳を傾けることになるのだと思います。事実認定だけではなく、量刑判断もするというのは、そういうことなのでしょう。

 ふと、自分のアパートの鏡のことを思います。台所に置いているせいでどうしても多少油で汚れてしまいます。たまに布で拭きますが、余計にくもりが拡大してしまったり。たぶん掃除の人がガラスクリーナーを使っているのであろう裁判所と違い、ぴかぴかとはいきません。でも、専用洗剤など買っても使い切れないだろうからもったいないし、自炊していれば仕方がないし、己の姿を映すことに支障はない。もし裁判員になっても、私は朝、その鏡の前で身支度をして裁判所に出かけいくと思います。

 それから、鏡の前でため息をつく自分もなんだか想像できます。「気が重いな…」と。でもきっとそのあと、私はちゃんと玄関を出ていきます。

 なぜ行くのかと言えば、行かないと怒られるからというだけでは説明できません。適正手続きを保証した裁判制度(取り調べ過程が可視的になって、過酷過ぎる取調べをされないとかいろいろ)がこの国にある、というのは、私たち市民みんなの財産です。共同体から恩恵を受ける構成員がその共同体のために働くのは、それを共同体が義務付けたからである前に、自然的に発生する義務ゆえなのではないかと思います。

 そんなようなことを、鏡の前で自分自身に向かって言い聞かせるのはわりと簡単そうです。

 でも、職場の上司を堂々と論破して休みをもらえるかとなると、ちょっと不安かもしれないです。他にも将来、姑をこうやって説得して子供を預かってもらい、出かけられるかというのも心配です(どうせ私には杞憂なのですけれど)。出かけられるかといえば、車椅子に乗る身になった場合、裁判所はバリアフリー設計されているのかも、心配です。

 鏡の中の理想を持ったまま法廷に辿り着きたくても、一人の心の持ちようではどうにもならないさまざまな障害が、いろいろあると思います。それらを私たちみんなでひとつずつ解決していくことで、裁判員制度は本当に市民のためのものとなるのではないか、と思います。







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