会報「SOPHIA」 平成17年12月号より

【特集】アジアの平和と日本国憲法を考える
憲法9条の「現実性」

名古屋大学教授 愛 敬 浩 二
 

 憲法9条が一切の軍事力の保持を禁止している。そのため、「9条は理想としては立派だが、現実的でない」との批判をよく耳にする。確かに抽象的に考える場合、「軍隊のない国」というのは非現実的かもしれない。しかし、問題は具体的に考えなければならない。コスタリカが常備軍を放棄したのは、内戦の原因を取り除くためだった。また、東西ドイツや韓国・北朝鮮のような分断国家は一方による軍事的統一の欲望を抑えるために、一定の軍事力を必要とする場合もあろう。しかし、日本はそのような状況にない。よって、日本における武力の放棄が非現実的な選択だと当然にいえるわけではない。

 憲法9条には侵略国の武装解除という側面がある。「日本の安全保障」ではなく、「日本からの安全保障」を確保することで、東アジアの平和と安定を確保するという国際意思の現れであり、その意味で9条はその「原点」において、すこぶる現実的なものだった。その後、冷戦の最前線となった日本を軍事的に利用しようとする米国は、日本に自衛隊の設置を「押し付けた」。この自衛隊と日米安保の「押し付け」に対抗して、戦争体験に基づく反基地闘争と反核運動が広がる中で、9条は現実を批判する理念へと昇華していったのだ。

 ただし、自衛隊の発足後も9条の「現実性」が失われたわけではない。たとえば、1960年の安保闘争の際、岸信介首相は国会を囲む33万人の国民を排除するために、自衛隊の出動を目論んだが、閣内からも異論が出て失敗に終わる。違憲の疑いのある自衛隊が出動して国民に銃を向ければ、もはや自衛隊が持たないとの認識があったようだ。アジア諸国において、軍隊が国民に銃を向けるのは珍しい事態ではないし、軍部が政治に干渉することもよくある話だ。日本だけそのような事態を経験しなかったのは、9条のおかげだといえないだろうか。

 現代改憲の目的の核心は、自衛隊を「正真正銘の軍隊」として海外に派遣することにある。現在のイラク派遣はあくまでも9条の拘束の下でのものなので、小泉首相も「戦争に行くわけではない」といわざるをえなかった。そのため、自衛隊は軍隊としての活動をできないでいる。だから、まだイラク人を殺してもいないし、自衛官が殺されてもいない。9条を改定した上で派遣していれば、自衛隊は英米の軍隊と同様に多数のイラク人を殺す一方、自分たちも甚大な被害を受けたであろう。

 日本に住む一人ひとりの個人の「安全と安心」を最も大切なものだと思うのであれば、近隣国との信頼関係の醸成こそ急務である。フランスとドイツは19世紀から戦争を繰り返してきたが、現在、ドイツとフランスが戦争をすると思っているヨーロッパ人はほとんどいないといわれる。両国の間に信頼関係が生まれたからである。不幸なことに、東アジア諸国との関係で、日本はそのような信頼関係をまだ醸成できていない。戦争責任・戦後責任の清算が必要だが、その際に軽視できないのは、9条が東アジア諸国に与える「安心感」である。他方、自民党の改憲案は自衛隊の海外派兵を可能にする9条改定と抱き合わせで、首相の靖国神社公式参拝を可能にする改憲をも目論んでいる。このような改憲が実現すれば、近隣諸国との間に不信感が蔓延し、私たち一人ひとりの「安全と安心」を脅かす結果になるかもしれない。








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