会報「SOPHIA」 平成17年9月号より

全国シェルターシンポに参加して

会 員 岩 城 正 光
 

 9月17・18日の2日間、ドメスティックバイオレンス(夫婦や恋人間での暴力、以下「DV」という。)防止について考える「全国シェルターシンポジウム2005inあいち大会」が、延べ1500人以上の参加者のもと名古屋国際会議場で開催された。DV被害者を支援する全国の民間団体をつないでいる「全国女性シェルターネット」が、1998年から毎年行っているシンポジウムであり、今年で8回目である。

 私も子どもの虐待問題やDV問題に取り組んでいる関係で、このシンポジウム開催にはかねてより関心があり、今回愛知県で行われたことから参加した次第である。


 DV被害者支援の民間団体が中心とはいえ、行政や国会議員、専門職もかなり多数参加しており、それぞれの分科会での報告もかなり活況であった。


 大会のメーンテーマは、「DV加害者プログラム」である。DV加害者の治療プログラムが果たして有効に機能しうるのかどうか、包括的なDV対応として加害者をどのように位置づけたらよいのかは、DV防止政策を考えるうえで避けて通ることはできない問題である。現に子どもの虐待問題については、虐待する親に対して厳罰をもって対応しても予防としての効果や意味がないという指摘はかなり説得力のある主張として受け止められてきた。児童虐待防止法も、虐待する親への児童福祉司による指導が規定されており、ゆくゆくは欧米のように親に対する治療受講命令制度を我が国でも採用するべきであると言われている。我が国でも、子どもの虐待防止のために、親への治療を試みる取り組みはすでになされており、それなりに虐待予防の効果があるとの実証的な論証が報告されている。他方で、同じ家庭内の暴力であるにもかかわらず、DVについては加害者の治療プログラムについては悲観的な論文や報告がもたらされている。これはなぜなのか。


 基調講演において、元ニューヨーク州家庭裁判所及び高等裁判所判事であり、現在も弁護士として活躍しているマージョリ・D・フィールズさんは、「加害者プログラムと被害者の安全確保−米・英の経験から学ぶ」と題して、「DVは他の犯罪と同じように犯罪として処罰を強化していく必要があること」、「警察や裁判所など公的な機関は、被害者と子どもの安全を守るために積極的に働きかけなければ、加害者プログラムは機能しないばかりか、かえって危険であり税金の無駄遣いである。」と断言している。フィールズさんは1971年にニューヨーク州弁護士として登録し、1986年にニューヨーク州家庭裁判所判事に就任し、1999年から2002年までニューヨーク州高等裁判所判事として務めた方である。私は彼女の和訳論文(「DV加害者男性から妻子を保護するためのアメリカの施策」民商法雑誌第129巻第4・5号所収)を昨年6月に目にしている。彼女はDV問題についてはかなり精力的に活動をしており、2002年秋から安部フェローとして日本に滞在して日本のDV問題を研究している第一人者である。フィールズさんの主張のとおり、昨年4月に改正された児童虐待防止法において、「DVは子どもへの心理的虐待である」としてDVが新たに児童虐待として定義づけられた。


 米国では、DV事件についてだけを専門に扱うDVコート(DV裁判所)が1996年から設置されている。民事裁判的要素と刑事裁判的要素を統合させた裁判所であり、家庭内犯罪に関する刑事事件、家族関係裁判及び子どもの養育費請求事件に関するすべての手続を行う。 保護命令から刑事事件の審理に至るまで同じ裁判官が担当し(一家族一裁判官の原則)、子どもの面接交渉などで矛盾する決定を出さないようにするために、DV被害者・加害者に関する民事・刑事の情報を集中管理する特徴を持っている。 しかもDVの専門裁判所として被害者支援を打ち出している。 この延長線上で、加害者プログラムもすでに実施されているのであるが、「裁判所命令でDV加害者に治療プログラムを受講させても、治療効果はほとんどない」と言われれば、DV防止策としては一体どうしたらよいのかと途方に暮れてしまうのは私だけではあるまい。 とりわけ私は、子どもの虐待防止として親への治療プログラムを我が国の司法制度として導入できるようにと積極的に働きかけている者のひとりであるが、「DVの加害者の治療には意味がない」と断言されると、ますます私の活動を見直すことが迫られそうになってしまう。 私が危惧することは、「DVは犯罪である。だからDV加害者を厳罰にせよ」という単純な論理がますます力を増すことである。実際この大会には「加害者に厳格な処罰を」というテーマの分科会ができているし、DV被害者支援をしている民間団体も同じ論調で厳罰論を唱えているかに私にはみえる。確かに現状においてDVに対して警察や裁判所がまだまだ消極的であって、もっと被害者支援に取り組んでもらいたいという思いは私も同じである。 しかしそのことを「加害者厳罰論」に直結させる論理には危惧を覚えるのである。DV加害者プログラムには効果がないと断言したからといって、治療プログラムそのものを否定する流れが米国においてあるわけではなかろう。 むしろ効果的な治療プログラムのあり方を模索しているというのが現状認識として正確なのではあるまいか。 私は、家庭内で起きる暴力について寛容であろうとしているのではない。家庭内の暴力事件は、世代間に連鎖される重大な問題であり見過ごすことはできない。 しかし、人が生まれ変われるチャンスは家族としての絆にあるという気持ちも見過ごせない。少年非行をはじめ離婚問題など、家族の崩壊を数多く目にしてきたことで、逆に「家族の再生」を念頭に置いた関わりを私は重視している。 誰にでも「幸福を追求する人権」があるし、それこそが個人の尊厳であると実感している。ところが実際に幸福を求めて人は生きているけれど、他人を離れて個人だけの幸福はありえない。社会の幸福と個人の幸福とは不二なのである。 目の前にいる相手の幸福と自分個人の幸福とは同じことなのだと気づくチャンスは、実は自分のもっとも身近な他人である家族を見つめなおすことにある。


 私は、子ども虐待の暴力とDVの暴力とは暴力の質が全く違うのではないかと感じている。いずれの暴力も、暴力の世代間連鎖を絶つ必要があるから、暴力の吹きすさぶ現場(家庭)から被害者を率先して保護する必要がある。その意味で児童虐待もDVも家庭内への強制的な社会的介入は不可欠である。しかし、児童虐待は親の生育歴による自己肯定感の喪失が背景にある暴力であるのに対して、他方DVは相手を支配コントロールしようという手段として暴力を選択するという目的的な行動なのである。その意味でDV加害者の方が虐待する親と比べてはるかに狡猾なのである。治療方法も当然異なるはずだし、親子のつながり(児童虐待)と夫婦のつながり(DV)という点でも、かなり違った様相を呈することは明らかである。だからDVの方が犯罪性が強調され厳罰論がでて来るゆえんなのかもしれない。しかし私はDV厳罰論に違和感を覚え、「家族の再生」に取り組むことの有意義を逆に自分に問い直す大切な機会になった。いずれにせよ加害者治療は難しい課題である。






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