会報「SOPHIA」 平成17年6月号より
【特集】司法改革のゆくえ(その1) 法曹養成は、今
日本の司法は果たしてどこへ行くのか
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会員 打 田 正 俊
6月14日の司法シンポジュウムでパネリストとして述べたことを中心に、若干の付加をしてレポートする。
今時の司法改革の原動力が新自由主義的経済戦略にあることは、今や誰の目にも明らかと言えるが、我々弁護士はこの本質をどの様に評価し受け入れるべきか否かを検討しなければならないにもかかわらず、弁護士会はこれを殆ど議論しないままに改革を受け容れてきた点において、無責任の批判を受けてもやむを得ない(新自由主義の評価については神戸大学教授二宮厚美著「現代資本主義と新自由主義の暴走」新日本出版社刊が明快に説明していて興味深いので、一読をお勧めする)。
司法改革の全体像が出来上がった現在、日弁連が本来目指していた改革と、実際に行われた改革を比較すると、その間にあまりにも大きな隔たりがあるといわざるを得ない。
日弁連が目指してきた「市民のための」司法改革とは、司法予算の増額に裏打ちされた裁判所検察庁の人的物的施設の拡充や法律扶助の充実すなわち「大きな司法」の実現、官僚司法打破のための法曹一元、「死んだ」と評された刑事裁判の人権保障機能を復活させるための刑事手続きの改革、刑事裁判の民主化のための陪審制度の導入などであった。
ところが現在、司法予算の拡充や人的物的施設の拡充は忘れ去られたままとなっていて、「小さな司法」に変化がないばかりか、むしろ司法予算は削られてきている。刑事手続きの改革は、被告人の権利保護の充実どころか、従来の人質司法や密室の取調、調書裁判主義にはいささかの変更もなく、逆に裁判員制度の導入や公判前整理手続などによる迅速化の徹底のもと、十分な弁護さえも出来ない制度となろうとしている。被疑者弁護制度が設けられて、人権保障機能が充実したかに見えるが、国選弁護を一手に取り扱う「司法支援センター」制度の導入により、刑事弁護の大部分が基本的に法務大臣の監督に服させられることとなった。しかも国選弁護の費用は、従前の当番から国選に移行した場合の弁護費用をさえ下回ることになりそうで、費用面からも従前の弁護水準を下回ることになりそうである。全国津々浦々にまで司法サービスを行き渡らせるとのかけ声とは逆に、知的財産権訴訟の管轄が、一審は東京地方裁判所と大阪地方裁判所、控訴審は東京高等裁判所に限られることとなったことを見ても、「市民のため」というキャッチフレーズを使い分けるご都合主義が明らかである。
このように、司法制度改革は、日弁連が想定していた改革とは似ても似つかないものとなっており、司法制度は国民の権利擁護の制度から国民抑圧の機能を担わされるものになろうとしている。
「法曹人口増員」のかけ声の結果、実際には弁護士人口だけの大増員となったわけであるが、そのような増員を社会が吸収することが出来るのか、大増員によって弁護士や弁護士会が変質することはないのかが議論された。
私の意見は、大増員を吸収するだけの社会的なニーズはないだろうという見方である。増員賛成派の見方は、企業や官庁にはそのようなニーズがあるというものであるが、実際にもかなりの増員が始まっているにもかかわらず、官庁や企業に弁護士が吸収される現象は殆ど生じていないこと、企業内弁護士の連絡網である「インハウスローヤーネットワーク」のホームページに掲載されているインハウスローヤー自身の座談会における意見を見ても、企業が新人弁護士を雇うことで3000人の増員を吸収できるかというと、企業にそのようなニーズがあるとは思えず、吸収の程度は極めて微々たるものと話し合われていることなどによる。従って、近い将来行き場のない弁護士が大量に発生する可能性が高いと見るべきである。
弁護士の本来の任務は、司法の場を通じて国民の権利を擁護することにあり、司法の場は民事刑事を問わずそれ自体が権力との対決場であることから、権力に対抗するための弁護士業務の独立が保障されているのであり、企業内でいわゆる戦略法務に従事するためには業務の独立を保障する必要はない。
従って、仮に推進論者の言うように国家・公共団体や企業に就職する弁護士が大量に出現したとして、そのような独立を必要としない弁護士(それは既に従来の我が国の弁護士概念をはみ出しているとも言える)は自治を担っていくことが出来ないと見るべきである。
6000人もの法科大学院生から大量に輩出された弁護士が、巷にあふれることとなれば、公共的責務などとのんきなことは言っていられなくなる。日常的に目にする落伍者弁護士のサイドに立たされることがないよう、儲けに精を出さなければならないし、弁護士会務などもごく一部の者が担うに過ぎなくなるであろう。営業を兼業する弁護士も多くなり、弁護士を見る「市民」の目も今とは大きく異なるものとなろう。そうなれば弁護士会帰属意識も薄くなり、それこそ「強制加入が何故必要なの?」というのが弁護士の実感にもなりかねない。
法科大学院のキャパシティーは一応決まってはいるが、法曹の数をどの様に調整するかまで法的に決定したというわけではないのであるから、今後の法曹人口は、増員状況を見て調整することがどうしても必要になる。
次に法科大学院については、建前上は法曹にふさわしい幅広く豊富な知識と人格を備えた法曹候補者を養成するというものであるが、実質的な設置理由は大増員のための仕組み作りである。国家財政で法曹(特に弁護士)を養成することをやめ、自費で教育を受けなければ司法試験を受験させないという仕組みである。司法修習は存続させるというのが目下の方針であるが、実際にはさほど遠くない将来司法修習は廃止されるであろうというのが私の観測である。3000人もの司法修習生に従前のような修習をさせるためには、裁判官や検察官は修習に忙殺されて本来の職務をこなすことが困難になるであろうからである。
今までのような高度の公共性を担ったプロフェッションとしての弁護士を養成するには、司法修習のようなマンツーマン教育が不可欠であるが、それが不可能になる以上、新たに養成される弁護士(裁判官検察官はOJTに期待ということになろう)に高度の公共的機能を期待することは無理ということになるものと思われる。
全国津々浦々の大学に設けられる法科大学院は、様々な経験を持つ多様な人材を法曹に迎え入れる窓口となると説明されてきたが、実際には従前司法試験に実績を上げてきた大学の卒業者が全国で優位を占める傾向にあり、いずれ弱小法科大学院は撤退を余儀なくされると予想される。反対に受験予備校は、法科大学院受験生と卒業者の司法浪人を迎え入れて改革以前と同様に繁盛することになる。
新司法試験は、法科大学院の卒業者でなければ受験させて貰えない(細いバイパスは設けられるが)が、2年ないし3年間の自費教育を受験前に強制することにどれだけの合理性があると言えるかは極めて疑問である。法科大学院は出たが、司法試験に合格できなかった者の処遇も問題である。司法試験のバイパスを閉ざすのではなく、バイパスとの併存の中で法科大学院の有用性を検証することから、この制度の改革(廃止を含む)を検討していく必要があるのではなかろうか。