【特集】日本国憲法を語る    

 

「日本国憲法を語る」を特集するにあたって 会報編集委員会委員長 渥美 裕資
憲法第9条の改正を許さない。 会員 山本 正男
輝く「戦後」民主主義 会員 小栗 孝夫
危機に立つ「生存権保障」 会員 内河 惠一
憲法の下で模索される家族・男女の生き方 会員 池田 桂子
外国人との共生を願って 会員 名嶋 聰郎
弁護士・弁護士会と憲法問題 会員 冨島 照男
憲法調査会は、いま ―国会での憲法論議 会員 大脇 雅子
平和憲法とともに生きて 会員 野間美喜子

 



「日本国憲法を語る」を特集するにあたって

会報編集委員会委員長 渥美 裕資

 ここ数年、とりわけイラク戦争への関与をきっかけとして、わが国の「憲法をめぐる状況」は大きく変化した。多国籍軍の一員として重武装した自衛隊が戦火の地へ赴いた。集団的自衛権の行使として、国際社会の一員として、武力の行使を容認するかの議論がなされ、有事関連法の制定をみた。
 こうした第9条をめぐる動きの他にも、最近の社会の動きには憲法の理念との齟齬が感じられることがいくつかある。
 国会では、現実的課題として憲法改正が議論されようとしている。早ければ2、3年後あたりにも具体的なスケジュールが上がってくるといわれている。しかしながら、国会議員の憲法を巡る議論のなかには、国家権力の恣意と暴力を抑止し国家権力からの自由を保障するものとしての憲法の機能、法の支配といった基本原理が分かってないままの、あるいは歴史観・国家観に欠けた政治的・「常識的」議論のレベルのものも少なくない。しっかりと地に足を置いた議論が少ないという危惧を持つ。
 こうした大きな状況のなかで、法律家である弁護士ないしその集団である弁護士会として、憲法改正問題へどう関わるか、今後大きく問われてくるものと思われる。「改正」自体にどういうスタンスをとるのか、「日弁連版・新憲法案」という切り口すら考えられる。そもそも国家観にからむ問題であり強制加入団体になじまないという意見も考えられる。いずれにせよ、真正面から議論しなくてはいけない。
 そこで、「日本国憲法を語る」のテーマのもと、まずはそれぞれの思いを語っていただいた。アテネオリンピックの「ナガシマジャパン」顔負けの重厚な布陣を組んで執筆をお願いした。次ページからの原稿を読んでいただいて分かるとおり、それぞれの日本国憲法への熱いハートが伝わって来る。
 ここからは、団塊世代の大集団のすぐ後、喧噪と鮮やかなスカイブルー広がる「戦後」の時代、70年安保と全共闘の余燼の中の青春時代を経てきた中年の個人的思いを綴る。
 イラク人質事件のときには人質家族の訴えに対して自己責任バッシングが巻き起こり「言論統制」をなし、学校教育の場では権力が力ずくで「君が代」を強制するわが国である。中国大陸や朝鮮半島での蛮行を隠そうとする日本人が大声をあげている。伝統の尊重の名のもとに男女秩序、公共への人権の抑制などの旧秩序への動き。今年の夏のような肌にねっとりまつわり付く空気が漂っている。以前はもう少しさわやかだった。
 「あの愚かな時代」と違って、21世紀のわが国は、「成熟した市民社会」であり、「正義」や「成熟した民主主義」が機能しているから、軍事力を持っても正しく冷静にコントロールされ暴走しない、などと言う自信はない。国家権力全般についてもそうである。「民主主義」と社会の理性に委ねることで、人権と平和が確保できるなんて幻想にすぎないのではないか。平和、人権、民主主義は、「だめなものはだめ」としたがっしりした羅針盤のごとき憲法という大枠による保障が必要ではないか。
 この会報が発行されるのは9月に入ってからとなるが、「8月号」の特集であることにこだわりたい。日本国憲法は、ヒロシマ・ナガサキ、「8月15日」と関係なく語れない。
 民主主義、人権、そして平和に対して、骨太で強靱な弁護士会であり続けて欲しいと願う。



憲法第9条の改正を許さない。

会 員 山 本 正 男

1.私の戦争体験
 私は昭和15年3月南支に出征し、その後昭和16年12月8日太平洋戦争勃発と同時に香港、アンボン、チモール、ガダルカナルの各戦闘に参加し、昭和20年8月終戦となるまで実に5年有余南方戦線で戦った。殊にガダルカナルの戦闘は食糧、弾薬が欠乏し、優勢なる米軍と死闘を続け凄惨極まりのない戦闘を体験した。以下にその一端を記述する。
 米軍は我が軍より常に十数倍の兵力を以て連日熾烈なる砲火を我が軍に浴びせ、さしもの千古の密林も丸裸になり、山容俄かに改まるという戦況であった。今脳裏に残っているのはガ島は凡そこの世のものとは思えない陰惨な無気味な死の島であるということである。ガダルカナル…何という薄気味の悪い語韻を持つ言葉であろうか。当時我々は餓死のガ島といっていた。
 負傷しても手当をされず、病に倒れても薬もない。医療設備は皆無に等しく兵站病院は死体処理場と化し衛生兵の仕事は毎日死体を勘定して一ヶ所に集めるということであった。死体を井桁のように積上げ、死体が腐って高さが低くなるとその上に積み上げるという。恐ろしい光景である。
 山野には死体が散在し死臭はジャングルに充満し、その様子は到底筆舌に表わし難い。悲惨凄蒼という外はない。
 死体には何万という銀蝿がたかり、口目鼻肛門には無数の蛆がうごめいていて正視できる状況ではなく、正に地獄の世界である。
 死体は2、3日すると物すごく青く腫れ上がり、そのうち毎日降るスコールと暑熱のため10日間位で白骨化してしまう。よれよれの軍衣を骸骨が纏っている格好である。
 はじめは恐怖と戦慄を感じたが、そのうち無神経になり、そのようなものを見ても何とも思わなくなってしまう。驚くべき心的状態となるものである。ガ島の戦闘は3ヶ月続いた。ガ島に上陸した我が中隊の兵力は114名であったがそのうち戦死者は102名に及び辛うじてボ島に撤退したのは12名であり、その内4名はボ島で死亡したのでラバウルに帰りついたのは僅か8名に過ぎない。他の部隊も概ね同様な戦死者を出していると思う。この悲惨な戦闘を経験した者としては再び戦争への道を進むことは決してあり得ないところである。

2.明治憲法から現行憲法へ
 不磨の大典と謂われた大日本帝国憲法(以下明治憲法という)が施行されて以来日清、日露の両戦役を始めとし、昭和に入り、満州事変、上海事変、日支事変と戦闘が続き遂に太平洋戦争に突入し、昭和20年8月15日ポツダム宣言を受諾して敗戦で終結した。明治憲法が制定されてから僅々半世紀で不磨の大典といわれながら消滅してしまった。明治憲法は軍国主義者によって天皇制を巧みに利用され、戦争への道を一気に突走り、その結果未曾有の大敗北を喫した。日本は敗戦と同時に連合軍の進駐を受け、占領軍の支配下が6年有余に及んだ。新憲法制定にあたり日本政府は松本案なる天皇制を温存する憲法案をGH
Qに提出したがGHQはこれに一顧だにせず独自の憲法案を日本政府に示した。
 日本政府は、GHQ案を殆どそのまゝ政府案として国会に提出し、国会は若干の字句修正をしたのみでこの案を承認したのが現行憲法である(昭和21年11月3日制定、昭和22年5月3日施行)。GHQが日本政府に強く要求したのは軍国主義の徹底的壊滅であり、軍事力を保持せず戦争を永久に放棄させ平和国家を目指すことであった。併せて、統治権を有する天皇制の存在を容認しない強い姿勢であった。しかし、天皇と国民との沿革的関係から、少なくとも形式的天皇制を残すことは今後の占領目的を達成するためにやむを得ないとの配慮から「シンボル」としての天皇制を認めたのである。原文には「シンボル」とあるのを象徴と訳したものである。国政には一切関与しない装飾的存在としての天皇制を認めたものである。GHQの最終の目的は日本を徹底的民主主義の国家にすることであった。従って現行憲法の根幹は主権在民であり、戦争を永久に放棄し、軍備を保持しない平和国家を目指しているものである。

3.イラク戦争を契機とする憲法改正論議
 イラク戦争を契機として、憲法改正論議が盛んになっているが、私は憲法を改正する必要は全然ないと思っている。現行憲法は日本のあるべき姿を示す原理、原則を明確に示している。軍備を保持せず永久に戦争を放棄したものである。この原則は国民の断乎として守るべき鉄則である。
 あの敗戦を体験した結果辿りついた日本の進むべき道を明示しているものである。他の道を求めてはならない。多少の紆余曲折があっても最後に到着すべきものはこの原理、原則への道である。
 自衛隊は自国の防衛のみに専念すべきものであって、他国に赴いて戦争するためのものであってはならない。この点は明確であるにも拘らず、最近集団的自衛権なるものを持ち出しイラクへの派遣も憲法に違反しないと強弁しているが、この調子で論理を飛躍して行けば憲法は空文化するであろう。
 ところでこれ以上のことは解釈上無理があるということで憲法改正の論理が出てきたのである。改憲論者が指向しているのは我が国が軍備を保持し、必要に応じ海外に派兵する道を開かんとするための憲法改正である。このような憲法改正は断じて許してはならない。
 我が国民は敗戦を機に今迄歩んできた戦争への道を一切放棄し平和国家を目指すことを誓って現行憲法を制定したのである。この憲法は世界の範とすべきものであり、永久に保持されるべきものである。

4.結語
 この憲法を改正する必要性は毫末もない。戦争への道を開かんとする改正は断じて許すべきではない。

(追記)
 冒頭にあるとおり、山本正男会員は昭和15年から5年間にわたって、「皇軍の一兵士」として太平洋戦争の最大の激戦地と言われたガダルカナル島など南方戦線での戦闘に参加しました。その体験を綴った「ガダルカナル戦記」は、会報昭和42年5月号から11月号に掲載されましたが、そこに表現された戦争の露わな実態は会員の間で大きな話題となりました。
 戦争を経験しない世代が大半を占める現在、実体験をした立場から戦争を語っていただくことは大変意義深いと考え、とくに戦争体験者の立場から憲法第9条の重みを語っていただきました。
 「ガダルカナル戦記」の抜粋が、中部経済新聞「こちら弁護士会」のコーナーに置いてありますので、是非ご一読下さい。




輝く「戦後」民主主義

会 員 小 栗 孝 夫

【平和と民主主義】
 私と同世代の作家大江健三郎は、自ら「戦後民主主義」を信条とすることを表明している。その若き日の第2のエッセイ集「持続する志」で、この「志」とは軽蔑されたり処罰されたりしながらも、なんとか回復することになればいいと希望する「最初の志」を意味すると述べている。
 私は1945年3月の東京大空襲の後、生まれ故郷の美濃・白川に疎開し、そこで8月の敗戦の日を迎えた。小学校4年生の時である。
 憲法は敗戦の翌年11月に発布された。私は新聞紙上に発表された憲法の条文を切り抜き、巻紙にして大切に保存していた。既に教科書を墨で塗る作業に価値の転換を感じ取っていたが、平和と民主主義の理想を指し示すこの憲法の印象はとても新鮮であった。民主主義に反する「象徴天皇制」も含めて憲法を新しい価値としてそのまま受け入れていった。
 前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」とあるが、私が「戦争の惨禍」で思い浮かべるのは、広島・長崎の原爆の被害であった。永井隆博士の著書「この子を残して」が心に深く残っていた。
 私は小学校6年生の時出場した中日新聞社主催の話し方大会で、新しい国語の教科書に出ていた「植林によってデンマークの復興に貢献したダルガス親子の話」(内村鑑三)を引用して、平和日本建設への希望を語った。

【対日講和・日米安保条約】
 冷戦下にアメリカの占領政策は変更され、朝鮮戦争を経て、日本は再軍備に踏み出した。1951年9月対日平和条約が調印され(単独講和)、日米安保条約が調印された。
 対日講和では、日本の「存立可能な経済」の維持が賠償支払い(ポツダム宣言の「公正なる実物賠償の取立て」)より優先させられたという。国民の側でも戦争の被害者だという意識が強く、アジアとの関係や残留した韓国・朝鮮人の問題を省みることは少なかった。
 安保条約によるアメリカの軍事基地の拡張に反対する闘争が各地で発生した。立川基地のある砂川町では、反対運動のなかで基地に立ち入った行為が刑事特別法違反として起訴された。この砂川事件について、1959年3月東京地裁(伊達コート)は、安保条約の存在がわが国を自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込む危険だと指摘し、憲法違反の判決をした。
 当時名古屋で実務修習をしていた私は、名古屋駅の電光ニュースでこの判決を知った。このとき言い知れぬ感動を覚えたことは、今も忘れられない。
 この原判決からわずかに7ヶ月半後、最高裁大法廷は原判決破棄差戻の判決をした。後期修習で東京へ戻った私は、青年法律家協会の有志とともに伊達判事のご自宅にお邪魔し、直接お話を伺った。

【60年安保闘争】
 1960年の安保闘争は「戦後民主主義」の最大の高揚点だとされている。
 「満州国」で要職を務め、東条内閣の一員であった岸信介は、首相に就任して安保条約の改定交渉に着手した。安保条約の見直しそのものは必要な事柄ではあったが、どのような方向で見直すかが問題であった。
 しかし、反対運動が大きく盛り上がったのは、衆議院の強行採決がなされた5月19日以降である。
 この年4月、私は新任の判事補として岡山地方裁判所に赴任していた。6月18日、私は精神鑑定を依頼するため東京へ出張し、松沢病院での仕事を終えた後、連日数万人規模のデモが取り巻いていた国会周辺へ行った。
 そこで、先輩の裁判官から声をかけられ、青年法律家協会のデモの列に加わることとなった。そして、自衛隊出動がささやかれる緊迫した雰囲気に身を硬くしながら、6月19日午前零時、条約の自然承認の時を迎えた。

【ベトナム反戦と「加害」の認識】
 1963年5月弁護士に転じた私は、労働側の弁護士として働き始めた。
 1964年8月以降アメリカの全面的介入により、ベトナム戦争は拡大した。ベトナム戦争に協力する日本政府に反対する運動が起こり、1965年2月には「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が結成されている。
 1967年5月、ラッセル主唱のべトナム戦犯裁判がストックホルムで開廷された。これにならった法廷が各地で開催された。私も法廷メンバーとして参加した名古屋法廷では、東海地域の港湾・空港・軍需産業が戦争に関与している実態が明らかにされた。
 このベトナム反戦運動の中で、小田実は加害者体験の重要性を説き、満州事変からアジア太平洋戦争にいたる15年戦争の「加害」も強く認識され、強調されるようになった。
 この頃同時に進行していた全共闘運動では、「戦後民主主義」批判がなされた。私が学生時代東洋政治思想史の講義を受け、その著書に心酔した丸山真男教授がここでは批判の対象とされたのである。
 1968年1月原子力潜水艦エンタープライズ寄港阻止をはじめとして、70年安保改定の前後にかけて反代々木系の学生や青年労働者たちの公安条例違反の事件が多発し、私はその捜査段階の弁護を多数担当するようになった。加害者であることを拒否する平和への志向に共感しつつ、「後衛」の役割を果たしたのである。

【戦後補償をめぐって】
 加害の認識が生まれたとはいえ、現実に被害者の救済に至るのは容易な道ではない。
 冷戦が終わり、アジアの民主化が進行する中で、1990年代になって被害者個人の戦後補償の問題が多く提起されるようになった。
 長年にわたりこの問題に取り組んできた高木健一弁護士は、戦後補償運動で展開された問題提起は「戦後日本の在り方を根底から揺るがすほどの重みがある。」と述べている。(「戦後補償の論理」1994年)。
 2002年に出版された小熊英二の「〈民主〉と〈愛国〉」は、「戦後」におけるナショナリズムや「公」に関する言説を検証し、その変遷過程を明らかにした注目すべき労作である。
 1962年生れの著者は、この大冊の「あとがき」で、研究を始めて見ると「戦後民主主義」には予想を超えた世界と思いもよらぬ「言葉」の鉱脈があり、この世界を描いたという。
 研究の動機は説明できないとしながら、次の「私事」を紹介している。日本兵としてシベリアに抑留されたが慰労金を受給できなかった旧満州在住の朝鮮人呉雄根さんの提訴に、慰労金を受給した日本人として原告に名を連ねたのが著者の父である。

【9条の会の発足】
 「世界」の2004年8月号は、「9条の会」の発足を伝え、いま、大きな試練にさらされている憲法について、「あらためて憲法9条を激動する世界に輝かせたい」とし、憲法を自分のものとして選び直し、日々行使していくことが主権者の責任だというアッピールをのせている。
 7月24日の「9条の会」発足講演会では、大江健三郎・奥平康弘・小田実・澤地久枝・鶴見俊輔・加藤周一が演壇に立った。
 加藤周一が述べているように、憲法改正をめぐって国会と民意が乖離している状況がある。戦後民主主義の「持続する志」が新たな輝きを見せることができるかが問われている。



危機に立つ「生存権保障」

会 員 内 河 惠 一

はじめに
 先日敬愛する弁護士新井章先生(第二東京弁護士会)から「人間裁判・朝日茂の手記」をお送り頂いた。新井先生には野宿労働者の生活保護受給に関するいわゆる「林訴訟」の最高裁段階で大変お世話になった。「朝日訴訟」の主任弁護士であった新井先生からのお手紙には、「昨今の自民党政権の下での社会保障政策のすさまじい劣化・後退ぶりを…押し止める国民運動の早急な再構築と盛り上がりを期待して、まず朝日さんの「手記」に学ぶことから始めようと提唱したのが本書刊行の趣意…」と書かれている。すなわち、今一度朝日訴訟の原点に還る必要があるほど、わが国の生存権保障は今危機にさらされているのである。

新しい理念に燃えた立法者の夢
 太平洋戦争で国民の生活・心までが大きく破壊された。家や家族を失った人々が道端に溢れ、生きる希望を失った日本人が何と多かったことか。しかし、そこに芽生えた平和への思い・人間らしく生きる願望は、新しい日本国憲法の礎となった。新憲法の中に自由権と併せて生存権(社会権)が持ち込まれた所以である。国民の最低生活保障のため、新憲法の審議と併せて、国の責任と無差別平等の原則が組み込まれた「生活保護法案」が審議され制定された。さらに、社会保障制度審議会の答申に基づき、50年「現・生活保護法」が制定されたが、その立法作業に携わった小山進次郎氏の著書「改訂増補生活保護法の解釈と運用」を読むと、逐条解説書でありながら、立法者のほとばしるロマンを感ずる。51(昭和26)年の発行であるにも関わらず現在においても、なお「生活保護法」学習のバイブルの座を失っていない。

朝日訴訟の概要と意義
・朝日訴訟は、わが国の生存権保障を考えるとき避けることの出来ない事件であり、改めてその意味を考える十分な価値がある。
・肺結核重症患者として岡山国立療養所で治療を続けていた朝日茂氏の栄養補給を考え、兄が苦しい生活の中から月1500円を弟茂に送金したところ、福祉事務所は、「生活扶助費月600円の支給を打ち切り(兄からの送金で600円は賄う)、残り900円は入院費の一部負担として国庫に納入」との保護条件変更処分をした。この処分を争った行政訴訟がいわゆる朝日訴訟である。
・60年10月19日東京地裁は、朝日氏の請求を認める画期的な判決を言い渡した。すなわち、判決は、・月600円の生活保護基準は憲法第25条に違反する、・憲法第25条は国民の具体的な保護請求権を認めたもので、国家は国民に対し健康で文化的な生活を保障する義務がある、・最低生活保障水準の判定は、その時々の予算配分によって左右されるべきものではなく、むしろ予算を指導支配すべき、と指摘し、憲法第25条の下での生存権保障のあり方を深く考察した。しかし、この一審判決は、控訴審において、「憲法第25条プログラム規定説」と生活保護法第4条「補足性の原理」の形式的適用により覆され、また、最高裁は、生活保護受給権は一身専属であり、「朝日茂氏の死亡により裁判は終了した。」として原告の請求を退けた。
・50年の朝鮮動乱を契機に再軍備への動きが顕著となり、「バターより大砲」という言葉に見られるように軍備優先・福祉抑制の政策が始まる。にも拘わらず、画期的な一審判決(60年)が獲得できたのは、未だ新憲法を前向きに受け止め、新しい時代に生きる日本人の権利・幸福を積極的に考える果敢な裁判官が多くいたことを意味する。その前年在日駐留米軍を憲法第9条に違反するとしたいわゆる「伊達判決」が言い渡されたことも注目すべきである。
・朝日訴訟事件は、重症結核患者の朝日氏のがんばりとそれを支える支援者により、壮大な「平和と権利のための国民運動」に発展した。患者団体のみならず、労働者や平和運動団体からも、この朝日訴訟が「国民の生活と権利を守り、日本の社会保障制度の確立と、同時に戦争反対と平和を守る重要な闘いである。」との認識をもって受けとめられた。今「朝日訴訟」が顧みられなければならないと言われる所以である。

豊かな日本と生存権保障
 戦後わが国は、平和憲法の下で経済復興に邁進し、アメリカに次ぐ経済大国となった。しかし、90年代に入ってバブルが崩壊し、それまで潜在化していた貧困問題が急に浮上することになった。豊かな日本の中で今憲法第25条の生存権保障がどのような状況にあるか、名古屋の地において争われた「林訴訟」を見ながら考えてみる。
「林訴訟」の概要と意義
 林さん(当時55歳)は、交通事故の後遺症を抱え、しかもバブル崩壊の影響で仕事もなく、野宿生活を余儀なくされていた。林さんの生活保護申請に対し福祉事務所は、「稼働能力があるから保護しない。」としてその申請を却下した。その処分を争って提起された行政訴訟が林訴訟であった。
 名古屋地裁は、96年8月「稼働能力があっても、具体的な就業の場がなければ生活保護を支給すべき。」と判示し、林さんは全面的勝訴となった。しかし、名古屋高裁は、「当時でも林さんにも働く場はあった。」と一方的に決めつけ、一審の判決を覆した。現実を直視しない、行政追随の判決であった。林さんは、最高裁段階でガンに冒され最終判決を見ずして亡くなったため、同訴訟は、朝日訴訟と同様「裁判終了」で終わった。しかし、林訴訟の一審判決は野宿労働者の生活保護受給問題での金字塔だと言われた。現に司法の動きとは別に、厚生省(現・厚労省)は、一審判決の判断(精神)にならい、「ホームレスに対しても稼働能力があるというだけで、生活保護の要保護性なしとなし得ない。」との通達を出している。また、林訴訟は、全国の日雇労働者を力付け、その後の生活保護に関する不服審査請求を誘引する成果をもたらした。

生存権保障の危機
・市場原理の競争社会において必要なことは、その競争に敗れてなお、文化的で最低限度の生活が保障されるセーフティーネットが社会の中にしっかりと張り巡らされていることである。しかし近時わが国の社会保障制度に持ち込まれている「規制緩和・自己責任」の原理は、費用がかさむと言われる福祉の世界から国家予算を次第に削減しようとする役割を果たしている。例えば社会福祉基礎構造改革の流れの中で、「措置から契約へ」の変革が打ち出されたが、その建前はともかく、変革の底流に国が福祉を支えるという思想の後退を見るのである。
・バブル崩壊後、不況の長期化がもろに福祉政策に影響を及ぼしている。特に近時顕著に見られるわが国の軍国化には、莫大な国家予算が必要となることは言うまでもない。わが国の軍国化への歩みは、必然的に社会保障制度ひいては憲法第25条の生存権保障を極めて脆弱なものにしていくことは火を見るより明らかである。現に、アメリカにおいて、莫大な軍事費のため社会福祉政策が極めて貧弱な状況に置かれていることからも明白である。平和主義と生存権保障は密接不離の関係にあることが改めて認識されるべきである。



憲法の下で模索される家族・男女の生き方

会 員 池 田 桂 子

 自民党を中心とする憲法改正の議論は、婚姻・家族の分野についても及んでいます。同党のプロジェクトチームの論点整理によれば、「戦後、個人主義が正確に理解されず、利己主義に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまったのではないか」とまとめられています。選択的別姓制度の導入がまともに議論されないばかりか、そのような方向での見直しが24条をはじめとする家族や女性の問題に及ぶとすれば、見直しの方向としてかなり危ういのではないかと、懸念される印象を持ちます。
 正面きって憲法をよりどころとする女性差別事件、労働裁判を経験したことのない私ではありますが、昭和30年代生まれの私も人生半ばとなり、憲法を語り継ぐ年代にさしかかっているという多少の自覚から書かせていただくことにしました。

「憲法から遠い存在であった女性たち」
 戦後からおよそ1960年代まで、多くの女性たちにとっては、学校を卒業してから結婚するまで数年働き、結婚・出産を機に退職して家庭に入るという生き方が一般的でした。性別分業を前提とした差別定年制の事件を闘った鈴鹿市役所の山本さんや名古屋放送元アナウンサーの方の闘いを驚愕しながら伺ったのは、登録間もないころでした。私が登録した昭和58年当時は、1960年代から70年代にかけての女性差別定年制についての一連の裁判闘争(その最後は81年の日産自動車事件と思います)が勝利していた時期でした。
 憲法の保障する法の下の平等も具体的には企業と労働者の関係を規律する労働基準法に規定されていなければ私人間には効力が及ばない、というかつての伝統的な憲法学の論理は、裁判を通して変わっていきました。一般条項を援用し性差別の禁止は公の秩序を構成する、民法90条によって定年制差別は無効だ、との考え方がそのころには定着し、しかし同時に限界も抱えるようになっていました。
 それから今日までの長い間、そして今なお、男性よりも重い家庭責任を背負った女性が、賃金、昇進等での差別で容易に勝訴の見通しを持てないことはご承知の通りです。
 私は、残念ながら、男女雇用均等法世代ではありませんでしたが、均等法が昭和60年に制定された以降においても、後輩女子学生たちは、男子には山と送られてくる就職情報を横目で見ながら、期待されない存在として、職場での希望を抱かなかった時代が長らく続いてきたと思います。
 やっと最近、厚生労働大臣の諮問機関である研究会が、間接差別の解消に向けて検討を始めました。立証責任を転換し厚い壁を打ち破るには、道程はまだこれからです。

「中立は平等を推進してくれない」
 女性の生き方として専業主婦がピークであったのは1975年と言われています。日本の高度成長を支えてきた構造は、すでにそのころ変わり始めていたのです。その後は、少子高齢化が進む中で、社会システムにさまざまな歪が浮かび上がって行くことになります。女性をめぐる法律改正が活発化してきたのは、80年代後半のことでした。
 本来、法律の規定は性に中立にできています。しかし、そのような法の下で差別は解消されません。1985年(昭和60)、法律上、慣習上だけでなく、事実上のレベルにおいても、差別を是正していこう内容の盛り込まれた女性差別撤廃条約に批准した日本は、国際的な公約を守るためにさまざまな法律の制定、改正を展開せざるを得なくなりました。
 保護か平等かの激しい議論の末、先述の均等法が制定され、出産保護を除いて、長時間労働の制限、深夜労働の禁止は、子どもを養育する労働者に対する保護と再構成され、男女共通の保護へと展開していきました。しかし雇用の全ステージについての差別禁止が法律に盛り込まれたのは1997年(平成9)でした。課題はまだ山積みです。

「ジェンダーという視点で再構成する」
 家庭、家族を取り巻く状況も遅々とするものではありましたが、変わっていきました。国籍法の日本国民の要件が父性主義から両性主義へと改正されたのは、なんと1984年(昭和59)のことでした。
 なかなか進まない女性を取り巻く課題について、変革の原動力となりエンパワーメントさせているのは、最近良く耳にする、「ジェンダー」という視点です。文化的・社会的に形成される性役割と訳されます。生物学的な性により差別されることなくその才能や能力を幸福追求でき、また社会全体のために発展させられる社会こそ求められています。
 1999年(平成11)男女共同参画基本法が制定され、この基本法をテコにして、事実上の平等実現が各分野で図られつつあります。この法律は、国や都道府県等自治体の責任を明記し、アファーマティブアクション(積極的な是正措置)を施策に盛り込むように要請しています。憲法14条の性別による平等権を積極的な権利と位置づけ、具体的な施策誘導の必要性が急務となっています。

「公私2分論の行き詰まりを変える」
 この基本法には、夫から妻に対する暴力に関する問題への取り組みが急務であるとの、衆参両院の附帯決議が付されていました。
 2001年(平成13)には、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律が制定されました。ドメスティック・バイオレンス法(DV法)といった方が耳慣れている方も多いでしょう。「法は家庭に入らず」としてまともに社会から扱ってもらえなかった「夫から妻に対する暴力」は社会的に認知され、身体に加えられる暴力については、接近禁止命令や夫名義の家屋からの退去命令を内容とする保護命令が可能になりました。
 私がカウンセラーの方々とこの問題に取組み始めた10年前には、依頼者の話がわからないと男性弁護士から相談を受けることもありましたが、今やDV事件はごく一般的な事件と認識されるようになってきたようです。
 同様な変化は、企業でのセクシャル・ハラスメント事件にも見られます。従来から起こされてきた女性からの被害・損害賠償事件よりも、最近では加害男性が懲戒処分や解雇無効を争う事件が主流になってきた感があります。法律に違法であること、介入の契機が明記されたことは、大きな力になってきました。

「守られるべき人権・個としての大切さ」
 シングル、事実婚など、家族のあり方が変化する中で、バッシングや揺り戻しもあります。選択的夫婦別姓に関する民法改正について、国会議員の保守層からの根強い反対があります。家族の崩壊を招く、家族の一体感や日本の伝統に反する、などの反対理由で未だ審議にすら入れません。
 司法改革が進行する中、司法におけるジェンダー・バイアス(性に由来する固定概念や偏見)の改善は、憲法のめざす男女平等の実現に今とても大きな課題です。性犯罪に限らず事実認定の在り方に疑問を感じることもまだ少なくないと思います。
 私は、1997年以来幾度かの対談を経て、日本憲法の起草に携わった唯一の女性、シロタ・ベアテ・ゴードン女史と親交があります。憲法が、生身の人間、女性、家族をかけがえのない存在として大切にされるように願いを込めた、という彼女の言葉は未だに新鮮な響きをもっているように思うのです。



外国人との共生を願って

会 員 名 嶋 聰 郎

1 初めに
 日本国憲法は、平和主義・国際協調主義をその根本原理とし、又、その基本的人権規定は、法的性質論として、自然権思想に立脚するとされている。
 このような憲法の下にある日本国において、外国人との共生の理念は、日本国が展開する諸政策の中で、さまざまに生かされているはずである。
 そこで、翻って日本の現実をみると、メディアは、連日のように「治安悪化」、「外国人犯罪多発」と繰り返し報道する中で、国民は、いつかそれが統計データに裏付けされたものと錯覚していないであろうか。
 法務省は、今年、治安悪化は、不法滞在外国人のせいであるとして、「怪しい外国人」を入管に簡単に通報できる「通報メール」(いわゆる密告メール)窓口を立ち上げた。
 しかし、科学的データによれば、日本国における外国人犯罪率は、一貫して2乃至3%を維持しており、又、一部犯罪類型の絶対数が増加している場合にも、その犯罪類型での犯罪総数と、外国人総数が増加し続けている事実を正確に考察すべきである。結局、全犯罪の97〜98%を占めるのは、来日外国人以外の犯罪であり、真実日本の治安悪化を憂慮し、治安対策を言うなら、日本人の犯罪取締りをこそ強化すべきであることは言うまでもない。
 この外国人犯罪・治安悪化キャンペーンは、メディアの役割の点において更に深刻である。関西大学社会学部、間淵領吾助教授の研究によれば、朝日新聞が外国人犯罪を報道する割合(報道件数:客観件数比)は、日本人を1として、4.87であるとされ、客観報道とは程遠く、又、民間の独立メディアとしての見識が全く伺われない。犯罪報道についてこのメディアの問題は、外国人との共生問題に限らず、広く日本の民主主義、人権問題に及び、そして結局、憲法問題と深刻な係わりを持つものである。
 他方、地方公務員である石原都知事は、特定国を名指ししてその留学生は、殆ど皆窃盗に来ている、その犯罪は、遺伝子レベルの問題であるとまで公言しても、公職を失わない。
 日本国は、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」(人種差別撤廃条約)に加盟したが、その第4条(b)項は、人種差別を助長し扇動するすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するとともに、法律で処罰すべき犯罪であると規定し、(c)項は、国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し、又は扇動することを認めない。上記石原発言は、一見明白且つ重大な条約違反行為であり、西欧であれば、即日公職を退かなければならないレベルの発言であって、この他国及び他民族を侮辱する都知事発言は、日本の国際関係を深刻なレベルで悪化させ、日本人の海外での活動の安全をも損なったものであるが、殆ど問題にされない。日本国、日本社会は、「外国人差別に寛容な国・社会」である。
 外国人との共生を憲法実態からみると、官民一体で、国際条約は無視し、外国人との共生とは程遠いキャンペーンを行っているとも評価できる。このような風土の中で、日本国憲法はただ沈黙しているしかないのであろうか。

2 国境を越える労働者とマクリーン事件最高裁判決(昭53・10・4)再考の必要性
 物、資本とともに国境を越える人の移動が、経済のグローバル化との関係で語られるのは、比較的最近のことであるが、国境を越える労働者、労働力の国際的移動の問題自体は、古典的な問題とさえ言える。ここ10年で馴染み深いものとなった、日本で働く日系人の存在は、1924年、アメリカが日本人移民の排斥を宣言し(黄禍論)、以後、日本人移民が南米にシフトした歴史と、この日本国自身がかつて労働力の送り出し国であったことの身近な証であるし、ごく最近の深刻な国際的事例を挙げれば、イラクで働くフィリピン人労働者の人質問題の発生及び解決とその中でもなおイラクへの出稼ぎ希望が絶えないと言う事実は、国境を越える労働者は、家族のためには、その命をも賭けていることを露にした。
 ところで、現在の国際法秩序においては、国境通過、在留維持は、主権国家の高度に自由な裁量に任されているという。
 この観点での代表的事案であるマクリーン事件は、周知のとおり、英語教師として我国に在留し、ベトナム戦争等に反対する集会に参加した米国人マクリーン氏が、その在留資格更新拒否処分を受け、その拒否処分の違法性を争った事案であるが、最高裁は、外国人の表現の自由を限界付きで認める一方、主権国家論を根拠に、外国人の在留資格の更新処分について、法務大臣に高度の自由裁量を認め、処分を適法とすることによりマクリーン氏の言論の自由は保障しないことを示した。
 しかし、上記最高裁判例は、骨子を引用するのが憚れるほど著名であるが、その下級審判例については、最高裁判例程には記憶されていない。上記最高裁判例は、基本的に東京高裁判決を維持したものであるが、その東京高裁判例は、マクリーン氏の請求を認容した東京地裁判決の逆転判決であった。
 そして、この地裁判決にこそ日本国憲法の正しい解釈が込められていたと解されるのである。即ち、同判決は、外国人の在留資格の更新処分について、法務大臣に相当広範な裁量権があるとしつつ、その裁量権も、憲法その他の法令上の制限に服するものであるとし、憲法の定める国際協調主義、基本的人権の保障の理念に鑑み、更新不許可処分を違法としたのである。

3 外国人労働者政策のダブルスタンダード
 日本国は、単純労働者は受入れないことをその外国人労働政策の基本とすると宣言し(第9次雇用対策基本計画)、世界経済が必然ならしめる日本に向けての国際労働力移動は、最も深刻切実な単純労働者について、違法就労(超過滞在者)、不安定就労(留学生)、搾取労働(研修)等の形を取っている。
 しかし、日本で働く外国人労働者について、その就労実態に関する公式統計を分析して見ると、国がその排除を国策であると宣言している単純労働者の割合は、歓迎するとしている専門職就労者の割合と逆であり、3.6倍と言う数字を示している。単純労働者は受入れないとし、その医療、労災対策、子弟の教育支援等など、外国人労働者受入れのコスト、インフラ整備を回避したダブルスタンダード、違法化政策が浮かび上がるのである。

4 終わりに
 近年、憲法改正が、堂々と主張されるようになった。しかし、外国人との共生、外国人の人権と言う観点からこれを見ると、平和主義・国際協調主義を根本原理とし、少数者としての外国人の人権を等しく尊重する現憲法から、「草の根の排外主義」の根源、外国人差別に寛容な日本の人権状況を問い直すことこそ必要とされるのであって、その地道な実践に背を向けて企図される憲法改正は、外国人に不寛容な国家、人権を軽視する社会への道であり、辛うじて保たれてきた戦争をしない平和国家からの転落の危険と、外国人・日本国民双方の人権状況の深刻な低下を危惧させるものである。



弁護士・弁護士会と憲法問題

会 員 冨 島 照 男

1.はじめに
 太平洋戦争の終結を多感な少年期で迎えた私共「昭和前期世代」にとって、「新憲法」への思い入れの深さは、またひとしおである。
 「新憲法下教育制度」で育ったおかげで、平和主義・主権在民・人権の尊重の三大原理が、自然な形で自分の中で憲法感覚として浸みついていることを、「憲法改正問題」が登場してくるだびに、幾度となく再認識させられてきた。そして、いま、古稀を迎える年齢となった。
 度々訪れた、いわゆる「改憲の危機」は、それぞれの時代に盛りあがった「護憲」の動きによって、成文憲法の改正としては、その危機を回避して、やがて60年を迎える。しかし昨今、明治憲法回帰型の右翼的な改憲論が姿を消して行く一方で、新しい時代に即応した「新改憲論」「創憲論」なるものが、政治の大勢を占め、二大与野党一致の「改憲ムード」が急ピッチで進みつつある。
 これらの動きに大いなる不安と危うさを感じつつ、会報委員会の求めに応じ、これまで日弁連・名古屋弁護士会が、どのようにかかわってきたかをふりかえってみたい。

2.現憲法制定と新弁護士制度の発足
 いうまでもなく、現行の弁護士制度は、「新憲法施行」によって誕生し、旧憲法下における抑圧された「およそ業として認められないほどの低い地位にあまんじて、ひっそりと生活していた弁護士」の地位を、飛躍的に向上させた。戦争中の吾々の先輩は、「弁護士は正業につけ」と弾劾を受けたという。(「名古屋弁護士会史」戦後編4頁)
 因みに「同史」によれば、戦中の会員数はわずか百数十名、一年間の入会者は1〜2名であったという。やがて会員千名を超えようとする昨今と比べ、隔世の感がある。
 憲法施行1年後に成立した「現弁護士法」に基づいて、「日本弁護士連合会」が設立され、「弁護士完全自治制」が制度として確立した。以来、吾々はこの制度を大切に育て充実させ、再審・公害・消費者などの人権救済のみならず、法令の改正・諸制度への提言など幅広い活動を通じて、国民から信頼と期待される存在となり、いまや今回の司法改革の流れの中でも、日弁連は、改革の担い手の中核的存在として期待され、それなりの重要な役割を果たす存在とまでなった。その礎えが、現憲法の制定にあったことを決して忘れてはならない。
 しかしまた他方、その弁護士・弁護士会の活動の礎えとも言うべき「弁護士完全自治制」が、司法改革の激流の中で「現憲法」と共にきびしい危機にさらされているのも、また厳然たる事実である。

3.憲法問題と弁護士・弁護士会
 私ども弁護士・弁護士会の日常的活動そのものの原点が、「日本国憲法」とりわけ第3章「国民の権利・義務」の各権利規程に由来して居ることは言う迄もない。戦後60年間を生き抜いてきた万余の弁護士の活動そのものが、「弁護士と憲法」そのものの歴史でもあった。
 一方で、改正論議を伴ういわゆる「憲法問題」については、一面で強い政治性を帯びざるを得ないこともあって、日弁連・弁護士会としての組織的取り組みは慎重にならざるを得ず、その意味では、特記すべき活動の記録はない。しかし、弁護士会が憲法そのものをテーマとした活動をないがしろにしてきた訳ではない。
〈名弁・憲法記念行事〉
 名古屋弁護士会では、昭和47年から独自に「憲法記念行事」を企画し、名古屋市の共催を得つつ、会の市民向け公報活動行事の柱の一つとして、すっかり定着している。
 手前味噌で恐縮ながら、この行事は、山本正男会長時代に初めて企画されたもので、副会長就任前からの私の「公約」ともいうべきものであった。従来、裁判所・法務省との三者合同で、名目だけの記念行事が行われて来たことに不満を持ち、制約のない弁護士会独自の企画が別に出来ないものかと、当選直後から新副会長(高須・大橋・鷲見)と共謀して事前準備をし、就任したわずか1ヶ月の憲法週間で実施に踏み切り、成功を収めた。「知る権利」をめぐるシンポジウム的講演会であったが、前夜「参加者が1人も来てくれないガランとした弁護士会館ホール」の悪夢にうなされたことを、昨日のように想い返している。
〈日弁連の活動〉
 一方、日弁連では、憲法30周年を記念して「憲法の定着と発展に関する宣言」(昭和52年総会)、50周年では「国民主権の確立を期する宣言」(平成9年総会)を行い、間接的にではあるが、現憲法の擁護を表明している。なかでも特記すべきは、日弁連が1996〜7年に取り組んだ「憲法50年と日弁連」の事業である。「生かそう憲法!国民主権・私たちが主役です」を統一テーマに「憲法50年記念行事実行委員会」を組織して、全国単位会がこれに呼応した。
 当名古屋弁護士会でもこの事業を行い、私が実行委員長をおおせつかった。
・ 平成9年5月10日ナディアパークで市民500人の参加を得て、作家澤地久枝さんの講演と奥平康弘教授らによる「21世紀に向けて−人権保障原理はどのように生かされて来たか」のパネルディスカッションを行い、
・ 各種関連委員会から選出された委員の共同執筆による「21世紀に向かって憲法を考える」冊子を出版した。
 ここでの取り組みの基本的視点は、
「現憲法は、幾度となく改憲の危機にさらされてきたが、よく長い風雪に耐え、国民の人権保障、とりわけ再審・公害・消費者・子供の権利などの、多くの歪んだ社会事象の是正と改善に重要な役割を果たしてきた。戦後50年の日本社会の中で、憲法は国民にとっていかなる存在であって来たか。その真価と限界を検証する」という視点からの弁護士会活動の総括であった(1998年日弁連発刊「憲法50年と日弁連」122〜127頁)。

4.「名古屋憲法問題研究会」の活動
 会としての機関ではないが、昭和56年に会員有志で結成した「名古屋憲法問題研究会」の活動も忘れ難い。制定35年を迎え、にわかに激しくなった改正論議に危機感を抱いた有志の集りであったが、「現憲法の理念を護れ」の一点で結集した会員が、200名余り。総会員の実に37%に及ぶ。野間美喜子さんが事務局長でリードし、私が初代代表者。そして加藤隆一郎さんへと引き継いだ。10回に及ぶ読書会、数回の講演会で真剣な研究活動を続け、日本評論社から「護憲学入門−平和と憲法を考える」、同時代社から「負けるな日本国憲法」を出版・市販し、世論の注目を受けた。日弁連会長山本忠義氏(当時)の同著序文は言う。
「私の弁護士生活は、一貫してこの憲法と共にありました。……日弁連は、この憲法と弁護士法のもとでその使命を一歩一歩積み重ね、大きな成果をあげてきました。……いまその憲法が危機にひんしています。」
 そして15年を経た今、当時よりもはるかに重大な危機が訪れているのに、弁護士・弁護士会の反応がいかにももの足りなく感じるのは、古稀を迎えた加齢の故であろうか……。


憲法調査会は、いま
 
――国会での憲法論議

会 員 大 脇 雅 子

1、憲法調査会の設置
 国会の衆議院・参議院に、それぞれ憲法調査会を設置する国会法を一部改正する法律案が採決されたのは、平成11年(1999年)7月26日のことであった。これまで、憲法調査会は、内閣に設置され、改憲するに至らずとする報告書はだされたものの、社会党(当時)と共産党は、調査会に参加していなかった。今回の調査会の設置は、国会法102条の6にもとづき、「憲法調査会は、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行う」とされている。他の調査会では、議案の提案権があるのだが、議事運営委員会の確認条項として、おおむね5年を目途に、衆・参両議院の憲法調査会は、各議院の議長に審議の経過と結果の報告書を提出するが、憲法改正案の提案権はない、とされた。
 わたしは、憲法調査会設置の法案に対し、社会民主党参議院議員を代表して、設置反対の代表質問に立った。わたしは、憲法の基本原理はすでに国民の間に定着していると訴え、調査のあり方に言及し、審議は、少数意見を十分尊重し、出来得る限り討議のプロセスを大事にし、多数決ではなく、コンセンサスの形成が大切であると、訴えた。会場の自民党席から野次がとんだ。
「なーに言ってんだ。民主主義は多数決ときまってるんだ。」
 わたしは、あまりにもストレートな野次を受けて、壇上でしばしたじろいだのだが、このときうけた衝撃は、後々の憲法調査会の運営や討議のまとめにおけるわたしの危惧が現実化する端緒にほかならなかった。

2、改憲論議の高まり
 憲法調査会の衆議院の会長は中山太郎議員、参議院の会長は、あとでKSDの汚職で失脚する村上正邦議員であった。当時の憲法調査会における与党、とりわけ自民党や自由党の議員は、憲法論議が国会を舞台に行われるようになったことは、「まことに感無量。」「長いあいだ待っていた時がきた。」というある種の昂揚感に支配されていた。参議院では、各党の議員数に比例して選出される幹事会で、調査会の運営はきまるのであるが、具体的なたたき台や参考人や公述人の選定、日程調整などは、各党一人の6人の運営小委員会にまかされた。わたしは、社民党を離れる平成15年(2003年)12月まで運営委員会の委員であった。参議院調査会は、「国のかたち」を巡る議論と憲法制定にかかわったアメリカの生き残りの証人招致、経済界や労働界等各界の意見を聞くという三本柱のテーマで、そのやり方をめぐって議論が対立した。村上正邦議員失脚までは、会長や自民党幹事の草の根保守層に働きかけ、地方議会へも改憲の波を波及させようという意図があからさまで、参考人の招致も公述人の選定にも、村上会長と小山筆頭幹事の力技という怒涛の流れに抵抗する毎日で、わたしや共産党の委員は、疲労する有様であった。調査といいながら本音は改憲にどのように水を引くかであった。
 その頃、参考人として調査会に出席した、「新しい教科書を作る会」の会長西尾幹二氏の「憲法9条2項は、即刻切除すべきだ。フェミニズムが跋扈し、政界や教育界を汚染している。」という趣旨の発言にのけぞったり、衆議院では、東京都知事の石原慎太郎氏が、過半数で憲法を廃止すればいい、前文はじつに拙劣な日本語であるというような法律のクーデターのような発言が公然とされて、護憲の立場にたつ側とすれば、危機感は高まるばかりであった。
 一方衆議院では、憲法制定時の状況や議論をめぐって、日本国憲法はGHQの押し付けかという観点からの多くの著名な学者や批評家の参考人招致が、参議院の三倍速で進められていた。

3、報告書のとりまとめに向けて
 KSD汚職により村上参議院憲法調査会会長が辞任、新しい会長は、野沢、上杉議員と変わるなかで、衆議院では、平成14年2月7日、「基本的人権の保障」「政治の基本機構のあり方」「国際社会における日本のあり方」「地方自治」の4つの小委員会が設けられた。小委員会は、精力的に開かれており、発言の論点整理メモも作成され、論点は、改憲にむけての方向付けが次第に明らかになってきている。参議院は、衆議院に対比して、衆議院側からの非公式な両院憲法調査会の開催申入れを拒否し、「中間報告書」は作成せず、質の高い論議の形成と報告書作成にむけて努力をし、とりわけ「参議院のありかた」「二院制について」の小委員会を設置して、参議院らしさをアピールする報告書を取りまとめようとしている。両院とも自由討議が恒常化し、数の比例により、当然の事ながら、改憲の発言や議論の比重が多くなっている。
 なお、衆議院も参議院も、憲法調査会は、数多くの海外視察をおこなって、わたしも3回の参議院の海外視察に参加した。アメリカの硬性憲法と修正条項方式、EU憲法を巡るヨーロッパの議論、フランスの行政裁判所、軍隊のないコスタリカの政治と秩序維持、カナダのPKO訓練センター、国連の活動等々、各国の憲法事情は、興味が尽きないものであった。

4、政党の憲法改正案
 さて政党と憲法改正論議についてであるが、民主党は、「総論」「統治制度」「人権」「分権」「国際・安保」の小委員会に分れて議論をつめ、選挙前、「憲法提言のための中間報告」を出し、横路・小沢の国連待機軍構想の合意書、鳩山由紀夫「憲法改正試案中間報告」なども出されている。文明史の転換点に「国際協調による共同解決」(法の支配)を主流として捉え、グローバル社会の到来に対応する国家のあり方――主権の抑制と共有化――と情報化社会の人権と環境を重視している。
 自由民主党は、平成16年6月15日、「憲法改正プロジェクトチーム『論点整理』を発表した。『論点整理』は、「新時代にふさわしいあらたな憲法を求める国民的機運はかつてない高まりをみせている」という書き出しで始まっている。自由民主党の小泉総理が、結党50周年をむかえる平成17年11月までに、新しい憲法草案を作ると宣言しているところから、『論点整理』は、これからだされる草案の全体像を描くものと言えよう。
 新憲法制定にあたっての「基本的考え方」は、憲法が目指すべき国家像について、「品格ある国家」であって、「愛国心の芽生え」「日本人のアイデンティティーたる伝統と文化」「公共を支える共同体と家族」をキー・ワードとしている。そして、議論は、憲法を「権力規制規範」としてでなく、「公私の役割分担と国家と国民の共生社会のルール」として機能させていこうとする。国民の権利と自由の保障から国民の精神まで統括していくというのだろうか。前文の改正はさけてとおれない憲法9条の改正国柄や家族に関する文言も盛りこむ、非常事態への対処条項を設ける、憲法24条の個人の尊厳と平等条項を見直す、権利とともに公共の義務の条項を強化すること等、古い憲法への回帰が見られる。唯一興味深いのは、法案提案権を国会が独占するという提言である。
 両党案を印象的に腑分けすると、民主党案は国際的な共同社会として法治の国を開き、自民党案は、国を伝統文化的に閉じながら、国際社会における強権的な「普通」の国家を目指すように見える。

5、論争に参加するのか
 これからの第2次憲法調査会は、改正案の提出権を調査会に付与することになるのであろうか。憲法96条の改憲手続に関して質問趣意書が出されたところ、8月10日付政府答弁書では、「憲法72条は内閣に対して議案を国会に提出する権能を認めている」としている。国民主権原理のもとでは、憲法改正案の発議は、国会議員のみが持ち、72条の内閣の議案提出権は認められないとするのが、有力な見解であるにもかかわらず、である。
 また憲法調査推進議員連盟は、与野党300名に及ぶ議員の参加を見ているが、憲法裁判所設置の検討とともに、憲法改正国民投票法案が提案されている。法案は、今秋の国会にも提出されようとしている。国民が憲法改正案の要否の判断にあたって十分かつ正確な情報提供を受け、国民の意思と判断が適切に結果に反映するものとなっていないと批判が起きている。改正案一括審議か条文別審議か、すでに議員に対するアンケートもマスコミにより行われはじめている。衆参議員の3分の2と国民投票という硬性的手続で果たして改正が現実に可能であろうか。まず、憲法改正手続の改正案――3分の2を2分の1とする、又は3分の2の国会議決のあったときは国民投票を省略する――が議論の俎上に上がってきた。衆議院の選挙が終わり、憲法調査会に出席する参考人(とりわけ研究者)に改憲論者が多くなった。護憲を主張し続け、国民に影響力を持つ研究者が「質問する議員の質が低く出席しても消耗するだけ」「改憲に与したくない」等々いくら頼んでも出席してもらえない。船体が大きく右に傾いて来たように見える。2分の1プラス1票の国民投票をにらんで、対抗軸となる市民憲法案を提案するのか、断固改正反対を唱えるのか、論争に参加するのか、国民の側も、いま、大きな選択をせまられている。



平和憲法とともに生きて

会 員 野 間 美喜子

1.憲法との出会い
 昭和14年生まれの私は、東京で戦災を受け、疎開先の三重県で終戦を迎えた。戦争は、6歳までのわずかな記憶しかないが、それでも心に刻まれたいくつかの戦争の光景がある。
 そして終戦の翌年、新憲法が公布された昭和21年、小学校に入学した私は、いわば平和憲法の第一期生であった。食べ物や、ノートや鉛筆には事欠いたけれど、自由と民主主義だけはたっぷりあった、あの戦後の短い一時期の希望にみちた新しい教育を浴びるように受けて育った世代である。
 その頃、暗い時代の反動のように、自由と民主主義は人の心の灯りであり、自由と民主主義と憲法9条さえあれば、日本は、あのおそろしい戦争に、もう二度と遭うことはないのだという祈りにも似た人々の思いがあった。まだ十分にその意味を理解していない子供たちまでも、「自由」や「民主主義」や「戦争放棄」をふんだんに口にした。
 先生が教室で読んでくれた憲法前文は、私が生まれて初めて出会った最高に美しい言葉であった。特に第二段の平和主義の宣言のくだり「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という美しい文章は、そのときから私の中で特別のものとなった。
 このようにして私は、根源的ではあるけれど、いわば直感的な民主主義者、情緒的護憲派となった。

2.憲法が蹂躙されていく……
 ところがその後、朝鮮戦争(1950年)を境にアメリカの占領政策は変わり、日本にさまざまな反動化の波が押し寄せた。軍備を持たない国家である日本に、7万5千の警察予備隊が創設され(1950年)、次に11万人の保安隊(1952年)となり、自衛隊(1954年)となった。そして大学3年の時、あの60年安保闘争があった。
 このように愛する憲法に暗い影がさし始めた時代に、私は青春時代を過ごし、弁護士になった。弁護士を一生の仕事に選んだのは、やはり憲法の理念に魅せられた子供時代の感動の延長線上にあった。
 しかし、20代、30代の私は、暗さが増していく憲法状況に対して、その都度、自分なりに、心を痛め、それなりの運動の列に加わってはきたけれど、それは、いつもどこかに、大きな力強い勢力があって、若輩の自分は、ただそこに仲間として連なっていればよいといった気楽さがあった。私は長い間、「自由」と「民主主義」と「戦争放棄」という憲法理念に立つ日本の未来を確信していた。それらの素晴らしい理念は不滅であり、必ず守られていくものと固く信じていた。
 弁護士になってからも、私は憲法理念への不動の信頼の上に立って、いわば気楽に仕事をしてきた。
 四日市公害訴訟、新幹線公害訴訟、予防接種禍国賠訴訟などに加わり、弁護士の使命として、弱い者のために闘い、そこで頑張りさえすれば、「それでいいんだ」「私の役目はそれなのだから」という感じであった。
 だが、その間、米ソ対立の冷戦構造の中で、日本の政府は、「戦争を放棄した国になぜ軍備がいるのか」という根本的な問題について、国民的議論を巧妙に避けつつ、いつしか自衛隊を世界第2の軍隊に育て上げていった。

3.80年代の改憲の動きに抗して……
 80年代になり、きわめて強力で巧妙な改憲攻勢を前にしたとき、40代になった私は、初めて本気で不安になった。草の根保守主義、いわば善意な市民の改憲論者の台頭に、私は驚き、戸惑い、そして自分自身の行きづまりを感じた。長いあいだ理屈抜きで、絶対平和主義の憲法を愛してきた私であったが、誰かがそれを守ってくれるという保証は全くなく、根拠なき甘えはもはや許されないことと悟った。見回すと護憲勢力の衰退はすでに目にあまるものがあった。
 戦争体験をもつ最後の世代として、平和憲法を守りたいと考えたとき、もはや自分自身が納得しているだけでは駄目であり、自らが護憲の主体とならなければならないと強く思った。憲法の理念がなぜ素晴らしいのか、正しいのか、現実的なのか、力なのか、国民を幸せにするものなのかを、自分以外の人に説明し、かつ説得する力を持たなければ、憲法を守れないことに気づいた。私は護憲のための豊富な理論を身につけたいと切実に思い、同志を募り、名古屋弁護士会の中に、「名古屋憲法問題研究会」という護憲のための組織をつくった。名古屋大学を中心に、学者の先生方の協力を得て護憲のための理論を学び、それらの成果は「平和と憲法を考える」「負けるな日本国憲法」という二冊の本になった。「負けるな日本国憲法」の表紙には、美しいリンゴの木が描かれている。「明日地球の終わりが来ようとも、今日私はリンゴの木を植える」という懐かしいメッセージが、あの頃の若さと護憲の情熱を思い出させる。
 同研究会は、市民団体とも連携しながら、護憲のためにさまざまの活動をした。劇版・日本国憲法「今日私はリンゴの木を植える」の上演、丸木夫妻の「原爆の図展」の開催、憲法40周年記念として憲法賛歌「五月の歌」演奏会など……そして10年が過ぎた。

4.戦争資料館の建設をめざして
 名古屋憲法問題研究会は、毎年8月15日に弁護士会館5階ホールで、「戦争体験を伝える8・15の集い」を開催してきた。「きけわだつみのこえ」「ひめゆりの塔」「真空地帯」「また逢う日まで」「雲ながるる果てに」など反戦映画の上映と戦争体験者がその体験を若者に語り伝えるという企画で、多いときは100名〜120名程度集まる会だった。真下信一先生や中野好夫先生に講演をしていただいたこともある。
 しかし、8月15日に若い人はなかなか来てくれない。8月15日はお盆であり、夏休みでもあり、若者は遊びやバイトで忙しい。結局は戦争体験者ばかりが集まって、戦争の恐ろしさ、愚かしさを確認し合うような会になり、新しい企画も打ち出せないまま、10年くらいで集いは中止になった。その頃、ソ連の崩壊によって冷戦の時代は終わり、「ソ連脅威論」や「西側一員論」を軸にした80年代の改憲の動きも沈静化したかに見えた。名古屋憲法問題研究会も一定の目的を達し、休眠状態になった。
 90年代になり、日本は見かけの上の平和と繁栄の中で、あの戦争のことをますます忘れていった。戦争の犠牲によって贖われた平和憲法も、満身創痍ではあるが、どうにか持ちこたえるかに見えた。しかし、私は、8月15日が来る度に、何もしないで8月を迎えることに、なんとも落ち着かない気持ちになった。考えてみると、戦争体験最後の世代である私たちがそろそろ社会の第一線から退いていく時代にさしかかっている。このまま、あの戦争のことを世の中がきれいさっぱり忘れてしまっていいものだろうか。あの戦争は、多くの犠牲の上に残された20世紀の負の遺産だから、これを次代の平和のために役立てることは、今世紀に生きた人間の責務ではないか。平和憲法と自衛隊という2つの矛盾するものを抱えている日本が、再び道を誤らないためには、あの戦争の記憶こそが残された最後の歯止めではないかと考えるようになった。
 そこで私は、8月15日の一日だけのイベントでは果たし得ない永続的な戦争体験の伝承をめざして、1993年に愛知県と名古屋市に戦争資料館をつくらせる運動を立ち上げた。……そしてまた10年が過ぎた。戦争体験者は高齢化し、戦争資料は散逸し、戦争はますます忘れられていくが、道は半ばであり、戦争資料館はまだ実現していない。

5.司法改革……そして改憲がいよいよ政治日程に……
 70年代から80年代、護憲勢力は急速に力を失っていった。労働組合、護憲政党、マスコミ、学術会議などかつての批判勢力が巧妙に変質されていった。改憲勢力は、明文改憲を先送りして、まず権力に対する批判勢力を計画的に潰し、あの戦争の記憶を風化させ、改憲の機の熟するのを待った。さらに90年代に入ると、司法改革という大義を振りかざして、批判勢力として最後の砦であった日弁連を骨抜きにすることを企んだ。
 司法改革に対する弁護士の考え方はさまざまであり、かつて名古屋憲法研究会で共に活動した仲間をも2分した。国民の人権を守るために、権力に対峙して、正しくそれを批判し、場合によっては国民を結集して反対運動のできる在野法曹としての弁護士、弁護士会こそが、憲法が求めている弁護士の使命・職責であることを考えれば、日弁連は、「市民のための改革」という錦の御旗からすかして見える司法改革の真のねらいを見抜き、総力を挙げてこれと闘うことが必要であったと私は思う。しかし日弁連は闘う道を選ばなかった。私はやむなく日弁連内部での闘いを展開したが、日弁連の姿勢を変えることはできなかった。いまや司法改革は権力の思い通りにほぼ完遂されつつある。
 ガイドライン関連法から始まり、PKO法、イラク特措法、盗聴法、日の丸・君が代法、住民基本台帳法改正、地方分権一括法、中央省庁再編法、などこの数年群れをなしてつくられた反憲法的な法律の数々。そしてあっという間に国会を通過した有事法制……。そして、ほとんどすべての批判勢力を壊滅させた改憲勢力は、いよいよ明文改憲を政治日程に上らせようとしている。
 これに対して、6月、東京では、井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久江、鶴見俊輔、三木睦子の9氏が「9条の会」を立ち上げ、9条改憲に反対するアピールを出した。遅ればせながら、この動きが全国の護憲派にひろがっている。
 愛知県でも、これに呼応する動きがようやく生れ、11月3日に、名古屋市公会堂で、加藤周一氏の講演を中心とした「憲法9条を守ろう 県民のつどい」の開催準備が進められている。
 今、平和憲法と共に人生を歩んできた私は何をすべきか、何ができるか、60代半ばにさしかかった私にとって、これは全く重い問題である。しかし、残り少ない気力と体力を掻き集めてでも何かをしなければならない状況が迫ってきているように思う昨今である。
 この度の名古屋弁護士会会報の特集企画はタイムリーである。これを機に、司法改革に対する考え方や立場の相違を乗り越えて、もう一度、「憲法9条を変えさせない」運動に弁護士仲間の結集ができればと思う。新しい組織でもよいし、休眠していた名古屋憲法問題研究会を起してもよい。
 今度こそ間違いなく、国民投票という、国民ひとりひとりの意思表示が問われる局面が来るだろう。法律家として、現在の世界情勢を踏まえた護憲理論の再構築と国民への護憲の働きかけは急務であろうと思う。