イラクに対する「国際貢献」を考える−日本人の身柄拘束をきっかけに−



会 員  田 巻 紘 子

1.はじめに
 「日本人3人の身柄が拘束されました。3人の名前は今井紀明さん、高遠菜穂子さん、……」3人の名前の中に高遠菜穂子さんを見つけたとき、息がとまる思いがしました。
 私は高遠さんに直接お会いしたことはないけれど、現在セイブ・イラクチルドレン・名古屋が取り組んでいる白血病患者の治療・医師の研修プロジェクトにあたり、イラク現地で多大な協力をされた方だと聞いていました。写真家・森住卓さんのホームページに掲載されている高遠さんの写真とエピソードは、イラクで親を失った子どもたちをあたたかく受け止めているものばかりでした。「なんてすごい人がいるのだろう」という尊敬の気持ちが、私の高遠さんに対する正直な想いです。
 そんな高遠さんが「ヤパーニー」(日本人)であるからこそ身柄を拘束されてしまったことは、非常にショックでした。イラクの人たちの中に、そのような行いにまで出なければならない程、追いつめられた状況(ファルージャの大虐殺が指摘されています)が生じている、ということを突き付けられた思いがしました。このことをまず述べておきたいと思います。
 この深刻な事態を突き付けられたはずの日本では、日本政府とマスコミの主導により「自己責任」という糾弾が展開されました。
 本稿では、この間の情勢が憲法の中でどのように位置づけられるのか、考えてみようと思います。非常に至らない私見ですが、今後の議論の一助になれば幸いです。

2.「国際貢献」という名のマジックワード
 「日本も金ばかりじゃなく、汗をかいて国際貢献をしなくちゃいけない」「だから、自衛隊をイラクへ送る必要があるんだ」こんな論理が、イラクへの自衛隊派遣を後押ししています。
 「国際貢献」「国際協調」という言葉で自衛隊の海外出動の必要性が説かれるようになったのは、1991年の湾岸戦争後のことではないかと思います。
 本稿を書くにあたり「国際貢献」や「国際協調」の定義について、いくつか辞書にあたって調べてみましたが、定義が示されている辞書にはたどりつきませんでした。
 考えてみれば「国際貢献」という言葉は、誰のために誰が何をするのか、という具体的内容を一切含まない言葉です。
 仮に「国際社会のために日本という国が貢献すること」を指し示すと解釈し、国際社会=国際世論、と考えるとします。今回のイラクをめぐる事態については、米英主導のイラク戦争開戦を支持した国が圧倒的少数派であり、現在イラクへ軍隊を駐留させている国の方がこれまた圧倒的少数です。したがって、日本が自衛隊をイラクへ送り出すことについて「国際世論にしたがった貢献」にはならない、と言えるのではないか、と思います。
 さらに、今回のイラクのように様々な形で生活が破壊され、無辜の市民が殺されている国に対しては、まず被害の回復が先決問題ではないかという疑問が生じます。被害の回復という場合には何より被害を受けている人の希望にしたがった援助が必要なはずです。
 そして、開戦理由の如何をとわず(私は今回のイラク戦争については大いに開戦理由の正当性を問うべきだと考えていますが)、本来被害が生じるべきではない非戦闘員の市民に対し被害が生じた以上、加害を行った(それに加担した)国(直接の加害国は米英になるでしょう)は「人道復興支援」以前に賠償を行わなければならないはずです。
 一体だれのための「国際貢献」なのか、「国際貢献」という名において自衛隊を派遣することが、非常に胡散臭く感じられます。

3.憲法前文の国際協調主義と5人の活動
 小泉首相はイラクへの自衛隊派遣を閣議決定した直後の記者会見において、憲法前文第3段の「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって」という部分を引用しました。
 首相が引用した部分は「困っている隣人を見て見ぬふりをするな」という戒めのはずです。今回、「困っている隣人」はイラクであり政府が存在しない現状では、イラクに暮らす人々です。
 そうであれば、イラク内でも救済の手がなかなか届かないストリートチルドレンを支援したり、イラクの現状を自分の言葉で伝えて支援を訴えようとすることこそ、憲法前文の「国際協調主義」の具現だと思います。
 一方、イラク人が、日本人の身柄を拘束してまで「撤退」を要求している自衛隊を派遣し続けることは、憲法の「国際協調」に反するのではないかという気がしてなりません。
 これはあるいは素朴すぎる考えなのかもしれません。しかし私たちの憲法は、「国際協調主義」の前提として、「正義の戦争はない」(戦争の放棄)という立場に立つことを明確にうたっています。その立場に反することが仮に国際社会で行われている場合には、日本はそれには与しない、というのが憲法の要請ではないでしょうか。

4.「自己責任」論に現れた政府の見解
 今回の事態で「自己責任」という言葉を最初に使ったのは、どうやら小泉首相であり、身柄拘束の発覚直後、報道関係者と会食を続けていた席上でのことのようです。
 その後、ある国会議員が「自衛隊のイラク派遣に公然と反対するような反政府、反日的分子のために血税を用いるのは、強烈な違和感、不快感をもつ」と発言しました。
 一連の政府の対応には、ある疑問が湧いてきます。「果たして身柄を拘束されたのがイラク派遣に賛成する、政府寄りの人間だったら、日本政府はどうしただろうか。」
 邦人が海外で自力では如何ともしがたい危難に遭ったとき、邦人を保護することは国家の責務です。しかし、今回、日本政府は救助に動くより前にまず「自己責任」という言葉を持ち出しました。
 今回の一連の経過から明らかになったのは、日本政府が「国民」という言葉を用いるときそれが無条件の「国民」ではないということです。「日本政府に従う」日本人は助けるがそうでない日本人は助ける必要はない=日本国として保護しないということを、日本政府は明らかにしたのではないでしょうか。
 日本政府は、3人の身柄拘束が伝えられた最初の段階から、自衛隊撤退を選択肢から外していました。自衛隊派遣により、現地で活動するNGOの活動が危険になる可能性は、日本政府が自衛隊派遣を決定する前から一定の共通認識になっていたことだと思います。
 そこを敢えて自衛隊派遣に踏み切り、かつ人命がかかった事態に至っても撤退の選択肢を全く示さなかった日本政府は、自衛隊派遣という「国益」を命に優先させたと評価されても致し方ないのではないでしょうか。
 私が学んだ憲法は「個人の尊厳」を根本原理とするものです。そして、憲法13条の「公共の福祉」という制約原理には、茫漠とした国益や戦争は含まれていないはずです。そして、小泉首相も私が学んだものと同じ憲法の下で、政治を行っているのに。
 現憲法下で、「国益」を優先させる対応に終始した日本政府の見解に対して、「国策だからやむを得ない」と認めることはできないと私は思うのですが、どうでしょうか。