あと一年、裁判員制度 下
平成一六年五月二一日に成立した「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が,いよいよ平成二一年五月二一日,施行されます。
社長

 前回のお話ですと,被告人が自白したからといって必ずしも犯人とは限らないとのことでしたよね。やってもいない犯罪をやったと言う人は本当にいるのですか。

弁護士

 いますよ。特に問題なのは,捜査機関による過酷な取調べに耐えられず,虚偽の自白をしてしまった場合です。逮捕・勾留されると,社会から長期間隔離されたまま,密室の取調室で何時間も取調べが行われ,取調官にいくら自分の言い分を述べても頭ごなしに否定され,あの手この手で自白するように迫られます。これが毎日続くとなると,裁判になれば真実は明らかになると思ったり,あるいは,何を言っても無駄だと絶望し,虚偽の自白をしてしまうことが現実にあります。

社長

 虚偽の自白で冤(えん)罪ということもあるのですよね。裁判員制度で,我々素人に見抜けますかね。

弁護士

 今の制度では,プロ・素人関係なく,見抜くのは難しいです。
 新聞でも報道されましたが,昨年の一月に真犯人がでてきて強姦等の罪につき冤罪が発覚した富山の氷見事件では,プロである裁判官,検察官,弁護人の誰も虚偽自白に気付けませんでした。
 また,昨年二月には,親族の名前を書いた紙を踏ませる(踏み字)などの手法で自白を強要した事件(鹿児島志布志事件)がありました。この事件では,裁判の結果,自白は信用できないと認定されたものの,不適切な取調べがあったことを明らかにするために,約三年半、五四回の審理が必要となりました。

社長

 どうして,見抜くのが難しかったり,時間がかかったりするのですか。

弁護士  今の日本の制度では,密室で取調べが行われており,取調べの様子を明らかにする客観的な証拠がないため,自白を強要されたことなどを証明することが難しいからです。例えば,氷見事件では,取調官から「家族はお前に間違いないと言っている」などと言われて絶望して虚偽自白をしてしまったとのことですが,仮にこれが裁判で争われた場合,取調べの様子を客観的に証明する手段がないため,取調官と被告人の間で,「言った,言わない」の水掛け論になってしまうわけです。
社長  なるほど。それで最近,「取調べを録画しよう」という話がなされているのですね。
弁護士

 さすが社長,よくご存知ですね。密室での取調べが,多数の虚偽自白,冤罪事件の温床となっていることは間違いありません。
 取調べの様子を録画,録音し,後から取調べの態様が客観的に分かるようにすれば(可視化),自白を強要するような取調べがあったかどうか,水掛け論にはならず,判断が容易になりますし,捜査機関に強圧的な取調べをさせない抑止力にもなります。そこで我々は取調べの全過程を可視化するよう求めているのです。

社長

 取調べの「全過程」の可視化と言ったけれども,新聞では,検察庁等で取調べを一部録画すると報道されていましたよ。

弁護士  はい。しかし,検察庁等が一部録画するのは,自白した後の場面であり,「自白調書作成後に署名押印する場面」など,捜査機関の都合で決められます。
 しかし,問題のある取調べの結果,虚偽の自白をした場合,検証すべき点は,その「問題のある取調べの場面」です。自白した後の取調過程を検証してもあまり意味はありません。逆に,録画した際は自白していたから信用性があると,安易に判断されかねません。
 だからこそ,我々は,取調べの「全過程」を可視化すべきだと求めているのです。 
社長

 どうして検察庁等は一部しか録画しないという方針なのですか。

弁護士

 日本の捜査機関も政府も,取調べを録画,録音すると,真相解明に必要な自白が得られなくなるなどと言って,もともと,取調べの可視化に消極的なのです。

社長

 可視化すると真相解明に必要な自白が得られなくなるようなことはあるのですか。

弁護士  そのような実証はなされていません。むしろ,既に可視化を実現している諸外国では逆の報告が多いです。
 そもそも自白の獲得こそが真相解明であるという発想がこれまでの自白強要を招いてきたのです。捜査機関はその危険性を厳しく自覚すべきです。捜査官が適正な取調べを行っている限り,事後的・客観的に検証されることを拒む合理的な理由はないと思います。

社長  そうですよね。氷見事件では,真犯人がでてきたことで偶然冤罪が発覚したのでしょうけど,他にも虚偽自白による冤罪事件はあるのでしょうね。
弁護士  そこで,日本弁護士連合会(日弁連)では,虚偽自白による冤罪をなくすため,国会に「取調べの可視化(取調べの全過程の録画)の実現を求める請願書」を届けることを目的に署名をお願いしております。社長もご賛同頂けるのであれば,是非署名して下さい。署名用紙は日弁連のホームページ (http://www.nichibenren.or.jp/ja/committee/list/investigation/shomei.html)にあります。
社長  はい。会社でも署名を募りますよ。 
 でも,取調べの様子が客観的にわかったとしても,我々素人に,自白が虚偽か,判断できますかね。
弁護士  大丈夫です。この場合,社長が判断するのは,任意に自白がなされたといえるか否かです。ですから,取調べの客観的様子がわかれば判断できますよ。
 しかも,裁判員制度では,事前に法曹三者間で公判の準備をしますので(公判前整理手続),取調べで問題となる点は,絞られます。従って,長時間に及ぶ審理も必要ありません。
社長  それを聞いて少し安心しました。
 しかし,いずれにしても人を裁くというのは難しいですよね。裁判員制度でも,プロの裁判官の意見に従っておこうと,つい,思ってしまいますね。
弁護士  社長,それでは意味がありませんよ。そもそも,裁判員制度は,プロではない裁判員の,一般人としての経験・感覚を裁判に活かすことに,大きな目的があるのですから。
 また,人を裁くのは確かに難しいですが,社長が判断するのは「有罪か,有罪でないか」です。つまり,どんなに評議を尽くしても,一般人の経験・感覚から,有罪と判断するのに合理的な疑問が残るのであれば,「無実」と確信できなくとも,「有罪ではない=無罪」と判断すればよいのです。
 もちろん,犯罪者を逃してはいけません。しかし,それよりも大切なことは,罪を犯していない無実の人を、犯罪者として罰してはならない,ということです。
社長  「疑わしきは被告人の利益に」ですね。
弁護士  そうです。だからこそ,裁判では,証拠を十分検討し,きちんと評議を尽くすことが大切になるのです。
 裁判官も,評議では,裁判員が十分に意見を述べられるように工夫するようですが,一番大切なのは,裁判員自身が,人を裁く重さを自覚し,疑問があればきちんと質問し,意見があればきちんと述べ,議論をすることです。
社長  議論ですか。私は議論になるとむきになっちゃうからな。
弁護士  あはは。社長ならば,裁判官に対しても遠慮せず意見を述べ,議論することができますから安心です。ただ,裁判員制度の評議は,議論に勝つことに目的があるわけではないので,取締役会とは違って,自分の意見に固執せず,裁判官や裁判員の意見も聴き,納得いくまで議論して下さい。
社長  やだな。私は他の取締役の意見もちゃんと聞いていますよ。
弁護士  冗談ですよ。大変な任務ですが,裁判員制度をより良いものにするためにも,ご協力をお願いします。