言わせてちょ

年金問題を考える




年金について大問題が発覚した。国民が納めてきた年金掛け金のデータが社会保険庁で正しく把握されておらず、莫大な量のデータが不明になっているというのである。

この年金問題に関する国会でのやり取りをニュースで見たが、資料が揃えられない国民もいるのにどうするのか?との趣旨の野党議員の質問に対して安倍首相は、資料も無いのに全部払えというのか?と答弁されていた。しかし、この答弁には、どうも納得できない。

もともと民事訴訟の原則では、支払いを請求する側に立証責任がある。商品を売って代金が未収であれば、売主が売買の資料を残しておくべきものであり、それが無ければ敗訴するのもやむをえないことである。年金についてこの原則を適用すれば、請求する国民の側に立証責任があり、資料が無ければ泣き寝入りするしかない。しかし、年金掛け金は国民が任意に預けたものでは無い。国民の義務として半ば強制的に徴収されたものである以上、預かった側で責任をもって資料を残すべきであり、立証責任は事実上にせよ預かった側に課せられてしかるべきではないかと思う。

何十年も前の事実となれば、当時の勤務先が倒産している場合もあるし、税務上の帳簿類の保存期間も過ぎているから、立証したくてもできない事例は極めて多い。そうした場合に、全て切り捨てることが許されるのか、そもそも国の管理責任がある以上救済する必要があるのではないか、それが正に問われているのである。その意味では、安倍首相の答弁は、年金に頼る貧しい国民の立場について配慮の片鱗すらも無いと言わざるを得ない。

ちなみに、この立証できない国民については、第三者機関によって判断されるとのことである。しかし、ことの本質は、第三者機関が立証責任についてどう判断するかである。民事裁判と同様の立証責任を課せば、結局国民は救済されない。昔の勤務先の帳簿や支払いの証明資料は無くても、最低限昔の勤務先の同僚の陳述書があれば勤務していたものと認定し、この会社が税金等をきちんと支払っていたことが国の資料により証明されれば厚生年金の掛け金も支払っていたものと推定する、こうした事実上の推定を働かせて、初めて国民が一部なりとも救済されることになると思うし、この点を決めることこそが「政治の責任」である。単に第三者機関に委ねるというだけでは、それは単に支払いを拒む口実でしかなくなる危険性があるのである。

もう一つ問題を感じるのは、こうした不正手続きを行ってきた社会保険庁について、解体して民間にしてしまうという点である。不正処理の全容も解明できていない時点で組織を変えてしまえば、「組織が変わったので分かりません」との大義名分を与えてしまうことは明らかであろう。膿を出しきっていないのに組織を変えてしまうということは、「隠蔽」以外の何物でもない。

競争社会に移りつつある中で、年金暮らしの国民は切り捨てられていく、これが安倍首相の言う「美しい国」なのだろうか。