検察の謙抑性

〜検察の謙抑性〜


 2月の本コーナーで、ライブドア事件について東京地検特捜部の行動を評価する意見が述べられた。今回のライブドア問題で、証券取引等監視委員会が政治と近すぎたために機能しなかったという見解に異論は無い。しかし、私は東京地検特捜部の捜査を諸手を挙げて賛成する気にはなれない。規制緩和を行う以上、守るべきルールが明確にされ、これを客観的に監視する組織は必要である。しかし、それが検察庁でよいのだろうか。

 刑事処罰やそれを前提とする強制捜査は、正に劇薬である。ライブドアを擁護するつもりは無いが、真実は法廷で明らかにされるものであり、現時点では何があったのか全く不明である。にもかかわらず、既にライブドアは厳しく糾弾され、テレビなどでも堀江氏は呼び捨てである。先日ある殺人事件で無罪判決が出た。検察側が控訴したため真実はまだ明らかではないが、少なくとも逮捕された時点で「極悪非道」と非難された被告人について、第一審では無罪と認定されたのである。しかし、現実に被告人は勤務先を解雇されており、家族の辛い思いはいまだに回復されていない。今のマスコミの状況を前提としたとき、検察の捜査のみに期待してよいのだろうか。

 「検察の謙抑性」という言葉がある。検察の持つ権力があまりにも強大であるが故に、その権利行使は謙抑的であるべきであるとの考えである。今回のライブドア問題について、まず行われるべきことは、機能しなかった証券取引等監視委員会の在り方の見直しである。ルール違反にも程度の差がある。独占禁止法違反については、政府から独立した組織である公正取引委員会がまず判断をし、必要な場合に告発するというシステムが取られている。軽微な違反については勧告等で済まされるのである。ルールが不透明なままで、途中までは何も言われず、突然逮捕されるとすれば、国民は安心して経済活動を行うことができようはずがない。

 政治が放置した違法行為を検察が摘発したことは必要なことだったとは思う。しかし、全てを検察に委ねるとすれば、その権力が巨大であり結果が厳しすぎるが故に、国民の受けるリスクもまた極めて大きなものとなる。検察が出過ぎることは、最終的には自由な経済活動を萎縮させるリスクを伴うということを忘れてはならないと思う。