中部経済新聞2012年7月掲載
【言わせてチョ】 「有罪か無罪か」は正しくない

以前に全面否認の殺人事件の弁護を担当したことがある。
法廷で無罪を主張したところ、マスコミ各社から「それで彼は本当にやっていないのですか?」と何度も同じ質問を受けた。
記者の皆さんは誰もが、「真犯人なら有罪、潔白なら無罪」と理解しているようである。
おそらくほとんどの市民の皆さんも同じ理解をしておられるものと思う。
しかし、右の理解は法律的には完全な誤りである。

アメリカの陪審裁判では、裁判官が市民から選ばれた陪審員に対し、次のように説示するという。
「皆さんがこれから判断するのはguilty or not guiltyです」と。
ここで大切なことは、「not guilty」の部分である。
英語で「潔白」は「イノセント【innocent】」であるが、裁判官は陪審員に対しては、被告人がイノセントであるか否かを求めてはいないのである。

アメリカも日本も同じだが、有罪とされるには、検察官が、被告人が有罪であることを合理的な疑いが無い程度に証明することが必要である。
被告人は人相も悪いし、前科もある。
犯行の動機も十分だし、アリバイもなく、弁解も不合理である。
しかし、指紋などの物的証拠は全くない。

唯一の証拠は「現場から逃げ去る被告人を見た」という目撃者の証言だが、老眼の進んだ証人が暗い現場で十分に確認できたとはとても思えない。
その意味では、真犯人は被告人しかいないと思うが、検察官が立証できたとは思えない。

こんなときはどうなのか。
これこそがノットギルティである。
被告人は限りなくクロに近い、とても潔白(イノセント)とは思えない、しかし証明は不十分である、これがノットギルティの意味である。
真犯人が処罰を免れる可能性を認めつつも、えん罪を防ぐためには証明が尽くされた場合のみを有罪とするしかない、これが法律の考え方なのである

日本の市民感覚では「無罪」との言葉には、「やっていない」「潔白」との意味がある。
仮にも、裁判員となった市民が、「被告人が真犯人なのかえん罪なのか、それを判断しよう」と考えたとしたら、それは大きな誤りである。
被告人がやっていないかどうかではなく、検察官の証明が尽くされたか否か、それこそが刑事裁判の本質であり、裁判員の役割である。
この意味で、「有罪か無罪か」という日本語は極めて不正確であり、裁判員を誤導する危険性があると思う

(M・G)