中部経済新聞2011年12月掲載
原発について思うこと

今年の3月11日、東日本大震災が起こったあの日、私は、仙台に住む大学時代の親友に無事を確かめるためのメールを送った。すぐに返事が返ってきた。彼の家族は全員無事だが、福島に住む彼の弟一家には乳児がいるので、粉ミルクや離乳食などを送ってやって欲しいとのこと。

彼の弟と私は面識はなかった。しかし、当時同じく乳幼児を抱えていた私にとっては、「他人事」とは思えず、既に名古屋市内でも品不足が始まっていたスーパーなどをはしごし、役に立ちそうな物品をかき集めて定形外郵便に詰めて送った。

その1ヶ月後、彼の弟から手紙が届いた。行政や他の民間の支援物資よりも、私からの支援物資が一番先に届いて救われたこと。その後放射性物質汚染を懸念し、子どもと妻を東京に避難させ、二重生活を余儀なくされていること。その他近況報告とお礼が、3枚の便箋に丁寧に綴られていた。

私はその彼の弟に対して、半年以上経過した今もまだ返事を書けていない。それは、現実に被災し、家族が引き裂かれ、完全に人生そのものが変わってしまった人へ、ありきたりな社交辞令以外の書くべき言葉が見つからなかったからである。それまで原発政策や放射性物質汚染に関して「我が事」として考えてこなかった自らの無知・無関心への後ろめたさもあった。

そして今、家族揃って以前とあまり変わらない便利な生活を送りながら、いつの間にかあの出来事が「他人事」となり、思考が停止してしまいそうになっている自分に気づく。

弱者に負を押しつけて無関心で通すという点において、原発の問題は沖縄の基地問題に似ていると思う。そして、孫からの「何故あんな戦争が起きちゃったの?」という素朴な質問に、「仕方なかった。一般市民にはどうすることもできなかったんだよ。」と力無く答えた太平洋戦争経験者である亡き祖父の言葉を思い出す。未来の自分たちが、子や孫の世代から原発問題について同じような質問を投げかけられたときに、私はどのように答えるのであろうか。

必要か必要でないか、安全か安全でないか、その点についての賛成派と反対派の溝は大きい。しかし、今こそその溝を埋めるために、徹底的に議論が尽くされなくてはならない。そして我々は、その議論の単なる傍観者であってはならない。なぜなら、我々は今、自由かつ主体的に情報を入手し、議論し、意見を述べることが権利として保障される民主主義国家に生きているからだ。この時代を生きる大人は皆、この議論の結果に責任を負う立場にある。

まずは、一人一人が想像力を駆使し、「我が事」として関心を持つこと。そして知識を得、現実と未来を見据え、自分なりの見解をしっかりと持つことである。それすら怠ったのであれば、将来我々が発するかもしれない「仕方がなかった。」という言葉は、祖父のその言葉よりもより一層むなしく、そして無責任なものとして次世代の子どもたちに響くであろう。(MT)