法律事務所の窓辺から 〜年賀状の季節が到来〜


1 年賀状を慌ただしく作成する季節となった。仕方なく昨年届いた年賀状の束を開く。本当に義理の年賀状が多いと思う。バレンタインのチョコはお菓子業界の陰謀だという話を聞いたことがあるが、年賀状も日本郵便に踊らされているだけかも知れないという気がしてくる。もっとも、歴史的には年賀の挨拶状は、奈良時代に始まり、江戸時代の飛脚制度の普及を受けて、明治時代に一般に広まったらしいのだが。

2 さて、時代は下り、現在の年賀状である。工学技術の発達により、個人でも簡単に年賀状や宛名を印刷できるようになった。印刷業者に依頼して挨拶文面を印刷するシステムは以前からあったようであるが、宛名まで個人で印刷できるようになったのは、昭和の終わり頃からのようである。

その結果、表も裏も印刷された文面だけで,差出人の顔が見えない年賀状が多数届くようになった。せめて一言書き添えるとか,宛名だけは直筆にするなどの工夫があれば、「相変わらずのクセ字だなぁ」とか「書き添える時に自分の顔を思い出してくれたかな」などと思いながら見ることもできる。しかし、すべて印刷された年賀状では、入力された作業を機械が行った結果が見えるだけで差出人の顔が見えないのである。

3 確かに、遠方にいる友人との間で年に一度の文のやり取りは、相応に意味のあることであろう。また、民営化された日本郵便にとってドル箱とも言える年賀状が減少することは大問題になることも予測できる。昨今の不景気において、年末年始に年賀状アルバイトによって生活費を稼ごうと考えている人もいよう。さらには、正月の風情として年賀状を見る楽しみがあることは否定しない。

4 しかし、「限りある資源を大切に」として環境問題が全地球的テーマとなっている現在において、顔の見えない年賀状をやり取りすることが資源の無駄に思えて仕方ないのは私だけであろうか。

平成21年の正月用に約39億5000万枚のお年玉付き年賀葉書が発行された。その原料として使用された木材の量は如何ほどであろうか。それによって吸収され損なったCO2の量は?と考えると、安易に年賀状を出すことに抵抗を覚えてしまうのである。

5 環境保護のために年賀状を止めよと主張する気はない。生物の輪廻は他の生物の犠牲の上にしか成り立たないからである。しかし、他の生物を犠牲にするのであれば、何らかの形で差出人の顔が見える年賀状の書き方を工夫すべきではないか。 

ただ商売柄、顧問先には最低限出さないと行けない。もっと義理を気にせず遠方の友人などだけなら、クセ字を気にせず心のこもった本来の年賀状が書けるが・・。浮き世の義理は悩ましい。