契約社会で求められること ―日本人の契約感―

 
 最近、大リーグで野茂投手と高津投手が所属球団から突然解雇され、少なからず大リーグの競争の厳しさと契約社会アメリカを認識させられた。

 他方、日本のプロ野球では、突然解雇されることはほとんど聞かれないものの、契約のあり方は、球団側が作成した全球団統一の契約書への調印が求められ、そこには個別具体的に交渉できる余地が大幅に制限され、対等な当事者間の契約というより、上下関係を確認するためのものとしか受け取れない。そのためか、選手が代理人による交渉を求める場合でも、球団側は、選手の同席を要請するなど制約を設けようとし、事実上ないし心理上選手が活用しにくい状況となっている。球団側にとって、球団と選手の結びつきは、契約というものを基本とするのではなく、むしろ球団の意向に沿うか否かが優先されるといわんばかりである。年俸の査定にあたっては、本人の個人成績の他に、他の選手とのバランスが重視され、家族的経営をオーナー自ら標榜する球団もあったほどである。また、最近では「たかが選手ごときが」のオーナー発言が記憶に新しい。

 両者の契約に対する認識の違いは、先祖が厳しい自然の中での生存競争で自他の意識が養われることとなる狩猟民族であったか集団での行動が重視され個が埋没しがちな農耕民族であったかの違いによるものなのか、はたまた、法を重んじる古代ギリシャ・ローマに起源を発する西欧文化の影響によるものか、個よりも家族や国家を重視する儒教の影響を受けたことによる違いなのか諸説あるにしても、契約ひいては法に対する西欧人と日本人の意識の違いを認めざるをえない。

 西欧文化が流入した明治維新から130年以上が経ち、戦後、新憲法が制定され国民主権が確立されてから60年が経過し、経済大国と呼ばれて久しくなっても、国民性の根っこにある部分は、あまり変わらないで今日まで至ったのではないか。このことをどう評価するかはともかく独自の国民性を保持し続けていることは事実であろう。西欧流の完全な「個」を確立した市民を前提とする民法、特に財産法が制定されて 100年以上が経過するも、日本人の血・肉となることなく、いまだに契約の知識に乏しい人がつけ込まれ、時に多くの被害が発生し社会問題にもなっている。そのため、最近やっと消費者の保護を目的とする法律の改正や新たな制定が相次いでいる。 100年たって、日本人の特質の上に立った日本人のための法が成立されるようになったのではないか。

 他方、経済界では、米国流グローバリズムの影響からか契約重視の傾向が徐々に浸透しているようだ。以前と比べ契約書の作成や内容の検討を依頼されることが多くなったように思う。

 但し、対等ないしそれに近いパートナーとしての契約ではなく、強者の論理がまかり通る一方的な内容のものも散見され、今後、裁判所の判断をとおして是正されることもでてこよう。この面でも、我が国における契約社会の本格的な浸透は、まだ緒に就いたばかりと言えるのではないか。(NN)