人権論からの議論が欠如 〜地方公務員の政治的行為の禁止強化〜

 
 国会で成立が目指されている法案の中に、地方公務員法の改正、具体的には地方公務員の政治的行為の禁止強化がある。
 現行法上、国家公務員は例えば政治団体への勧誘や集会などにおける政治的意見の表明など、政治的行為が罰則をもって制限されている。
これに対し、地方公務員は、国家公務員と異なり、選挙運動が禁止されていないなど制限が緩く、違反した場合の罰則もない。
 改正論者は、公務員の政治的行為を放任すれば中立性が失われ党派的な偏向を招く、国家公務員の場合は罰則規定があるのに、地方公務員に罰則がないのは問題だという。
 たしかに、公務が党派的に偏向してはならないことは当然である。
 ところが、昨今の議論はここから一足飛びに、公務員の政治活動の制限が必要といとも簡単に言う。地方公務員には罰則規定すら無いという論法はとても聞こえが良く、簡単に腑に落ちてしまう。
 しかし、政治活動の自由は、極めて重要な基本的人権である。歴史を思い返せば、いったいどれほどの人間がこのために血を流したことか。そしてまた、この人権が無いゆえ苦しむ人々が今日も世界にどれほど多数いるであろう。
 わが国に限っても、公務員の政治活動は、かつては大激論を呼び、著名な判決がいくつも出た論点である。政治活動や労働基本権などの基本的人権は公務員の場合どうあるべきなのか、皆考え、激論し、苦悩したのである。時代が変わって、皆そのことを忘れてしまったのだろうか。忘れてしまって良いような問題だろうか。
 公務の中立性確保というと無色透明を想起しがちだが、誤りである。特定の政治的意図のために公務員の職務遂行が歪み、国民の利益が害されることをいかに防ぐかという問題である。公務員である以上、個々人の政治的信条や政治活動が当然に制限されて良いという原理は存在しない。公務の適正確保のためあくまで例外的に制約せざるを得ない面があるという、果てしなく重い、悩ましい問題なのである。こうした人権論から説いて、規制の動きに疑問の声を挙げる報道を殆ど見かけないのは、とても怖い気がする。
 時代は今、国家の最高法規たる憲法の改正を意識する状況になって来た。時代に合わなくなったから憲法を改正するというロジックを各種報道の中で頻繁に見かける。しかし、現実がどうあれ目指すべき理想を謳うのが憲法ではないか。目指すべき理想を変えるのかという観点から熟慮しなければ、賛成するにしても反対するにしても実に浅薄である。
 聞こえの良い論拠だけで賛成・反対がなびき、本質に目を向ける機会の無いまま、人権や法体系の根幹にかかわる事項が簡単に変えられて行く。あまりに軽くて危険である。(Y・I)