知 覧 に て


 日弁連のシンポジウムが鹿児島で開かれたのを機に、知覧の特攻平和会館を訪ねてきた。復元された戦闘機と並んで、千を超える特攻隊員の遺影・遺品・遺書や家族への最後の手紙などが展示してある。悲壮感の感じられない遺書や手紙に、逆に彼らの心情を強く感じさせられ、胸の詰まる思いがした。

 三式戦闘機飛燕は初めて見たが、想像した程大きくはない。説明によれば、液冷エンジンの飛燕では胴体下部中央にラジエターがあって爆弾を吊れないため、一方の翼に爆弾を吊り、他方にバランスを取るための錘を吊って出撃したという。軽快な運動性を追求した戦闘機に250s爆弾や500s爆弾を搭載したのでは、機体の運動性能は極端に落ちることは自明の理である。特攻機の多くは敵艦突入前に迎撃戦闘機により撃墜され、戦局を変えるような大きな戦果を上げることはできなかったと聞くが、むべなるかなである。操縦士の養成には多くの時間を必要とするし、そうした技量を持つ操縦士が枯渇したからこその特攻という苦渋の選択であったのであろうが、かくも不合理かつ愚かしい戦法を考案した事実に驚愕するしかないし、更には、国家的利益のためにこうした非道な戦術を命じた当時の日本の指導部に対して、強い憤りを感じた。

 翻って今の政治状況をみると、イラクでは自爆テロが更に激しさを増しているが、その中で自衛隊のイラク派遣の議論が進んでいる。「憲法上交戦権は否定されている」というのが以前の政府の解釈であったはずであり、現在の自衛隊においては小銃発砲の基準も定められていないと聞く。「最初に相手から発砲されない限り射撃できない」という状況でイラクに派遣される隊員や家族の心情は察してあまりある。死亡の場合には1億円支給されるという点の法的措置は講じられたようだが、それ以前に決めるべきことがあるはずである。

 しかも、今回のイラク派遣については現実に日本国・日本国民に対する侵略行為があったわけではないのであり、戦う大儀名分もない。「国際貢献」と言えば聞こえはよいが、結局はアメリカとの関係をよくするという国家的利益のために国民の生命を危険にさらすことに他ならない。単純に今回の自衛隊のイラク派遣問題と特攻とを同視することはできないとしても、国家的利益を国民の生命よりも優先させるという発想の根底は共通している。日本国は過去の歴史から何を学んだのであろうか。(MG)